玉勝間 / 八の巻 中国
山陰道山陽道の國國を中國と云ふこと、元慶二年二月三日の官符に、伏尋物情、陸奧出羽之在籍建、尙限五年、因幡出雲之居中國、何得六年とあり。類聚三代格にのれり。
新字:山陰道山陽道の国国を中国と云ふこと、元慶二年二月三日の官符に、伏尋物情、陸奥出羽之在籍建、尚限五年、因幡出雲之居中国、何得六年とあり。類聚三代格にのれり。
書き下し
山陰道山陽道の国々を中国と云うこと、元慶二年二月三日の官符に、伏して物情を尋ぬるに、陸奥出羽の遠国に在るすら、尚五年を限る、因幡出雲の中国に居る、何ぞ六年を得ん、とあり。類聚三代格にのれり。
現代語訳
山陰道・山陽道の国々を「中国」ということは、元慶二年二月三日の太政官符に「つつしんで事情を考えると、陸奥・出羽のような遠国にある者でさえ、なお(任期を)五年に限っている。因幡・出雲のような中国にいる者が、どうして六年を得られようか」とある。類聚三代格に載っている。
解説
山陰・山陽の地方を「中国」と呼ぶ由来を、平安時代の法令から示した段である。律令制では、諸国を都からの距離によって近国・中国・遠国に分けており、因幡や出雲は中国に属した。宣長が引く元慶二年の太政官符は、国司の任期について、遠国の陸奥や出羽ですら五年に限るのだから、中国の因幡や出雲で六年の任期を認めることはできない、と論じたものである。ここで「中国」は、都から中ほどの距離にある国という区分の名として使われている。今日の「中国地方」という呼び名は、この区分の名残とする説が有力である。宣長は、自分の時代に地方名として定着していた「中国」の源を、朝廷の法令集である類聚三代格に探り当てた。地名や地方の呼び名にも、古い制度の記憶が刻まれていることを教える段である。
関連する章句
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