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中朝事実 / 中國章・四道将軍と国郡の区分・都の選定

崇神帝十年七月。選群卿遣四方。同年十月。命四道將軍。以平戎夷之狀。 謹按。是中國分四道之始也。此時王化未習。故有此命。 成務帝五年秋九月。隔山河而分國縣。隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱。南北爲日橫。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。 謹按。是中國分國境定諸道之始。蓋景行帝五十五年。以彥狹島王拜東山道十五國都督。則東山道等之名既在前朝也。〔崇峻帝二年。有東山北陸東海觀察使。此時或定七道乎。及孝德帝。〕〔定新式。始有五畿七道制。〕凡村里以統縣。縣以統郡。郡以統國。國以統道。是自一迄十。自十歸一。猶身使臂。臂使指一元氣周還四支百骸。故天下之大。四海之遠。王化無不通。正朔無不受也。王畿者。七道所以宗之。幾內者王室之小天下也。幾內之制明。則七道隨風而正。是乃北辰居其所而衆星共之也。聖帝詳水土之制。百姓安居。天下無事萬世因之以損益焉。帝之功不亦大乎哉。〔以上。論分道境之始。〕 神武帝東征己未年。下令曰。當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之德。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇。不亦可乎。觀夫畝傍山〔畝傍山。此云宇禰縻夜摩。〕東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之。卽命有司經始帝都。 先人曰。帝繼神代之迹。都日向國宮崎宮。 謹按。是中州營都之初也。墺區猶言最中。〔墺、四方土可居也。區、物可止藏也。〕蓋帝以平章於天下之蒼生爲大任。深思切謀守天帝授命之重。開天孫悠久之業。遂東征以制中州。始議都宮之地。建後世之規。以永祚於萬萬世也。此後國勢富庶。人物日盛。而代代有遷都。至元明帝。遷都於平城。以揚七代之聖風。終桓武帝。欲篤先聖之成烈安億民之所止。敬天之休。致人之順。詔達視新都之地。惟土以中。惟卜以食。惟民以興。故大命庶官。以服于土中。遷都於山州平安城。振明德於萬億世。是乃神武帝墺區之實也。古人云。遷都之君皆不復振。中州之遷都豈夫然乎。非違夷狄之害。非畏盜劫之難。唯富庶世充。土壤不給。故遷都日振。國勢彌張矣。夫京師爲四方之極。猶紫宮爲周天之極也。其選都邑非其中乃不得其實。所謂中者精秀之氣。天地以位。四時不違。陰陽惟中。寒暑不過。人民以止。萬物以聚。禮義惟立。武德以行。而後可稱墺區。可謂土中。本朝者。始有中柱中國之號。況神武帝制中州都墺區。共皆得其精秀。及平安城。選之極。中之至。一歸神聖立國之道。故時序正。而寒暑不過。土壤膏沃。而人物文章。中州中華之名實相齊。建都之制大備。是乃墺區之生成也。〔以上。建都邑之始。〕

新字:崇神帝十年七月。選群卿遣四方。同年十月。命四道将軍。以平戎夷之状。 謹按。是中国分四道之始也。此時王化未習。故有此命。 成務帝五年秋九月。隔山河而分国県。随阡陌以定邑里。因以東西為日縦。南北為日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。 謹按。是中国分国境定諸道之始。蓋景行帝五十五年。以彦狭島王拝東山道十五国都督。則東山道等之名既在前朝也。〔崇峻帝二年。有東山北陸東海観察使。此時或定七道乎。及孝徳帝。〕〔定新式。始有五畿七道制。〕凡村里以統県。県以統郡。郡以統国。国以統道。是自一迄十。自十帰一。猶身使臂。臂使指一元気周還四支百骸。故天下之大。四海之遠。王化無不通。正朔無不受也。王畿者。七道所以宗之。幾内者王室之小天下也。幾内之制明。則七道随風而正。是乃北辰居其所而衆星共之也。聖帝詳水土之制。百姓安居。天下無事万世因之以損益焉。帝之功不亦大乎哉。〔以上。論分道境之始。〕 神武帝東征己未年。下令曰。当披払山林。経営宮室。而恭臨宝位。以鎮元元。上則答乾霊授国之徳。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而為宇。不亦可乎。観夫畝傍山〔畝傍山。此云宇祢縻夜摩。〕東南橿原地者。蓋国之墺区乎。可治之。即命有司経始帝都。 先人曰。帝継神代之迹。都日向国宮崎宮。 謹按。是中州営都之初也。墺区猶言最中。〔墺、四方土可居也。区、物可止蔵也。〕蓋帝以平章於天下之蒼生為大任。深思切謀守天帝授命之重。開天孫悠久之業。遂東征以制中州。始議都宮之地。建後世之規。以永祚於万万世也。此後国勢富庶。人物日盛。而代代有遷都。至元明帝。遷都於平城。以揚七代之聖風。終桓武帝。欲篤先聖之成烈安億民之所止。敬天之休。致人之順。詔達視新都之地。惟土以中。惟卜以食。惟民以興。故大命庶官。以服于土中。遷都於山州平安城。振明徳於万億世。是乃神武帝墺区之実也。古人云。遷都之君皆不復振。中州之遷都豈夫然乎。非違夷狄之害。非畏盗劫之難。唯富庶世充。土壤不給。故遷都日振。国勢弥張矣。夫京師為四方之極。猶紫宮為周天之極也。其選都邑非其中乃不得其実。所謂中者精秀之気。天地以位。四時不違。陰陽惟中。寒暑不過。人民以止。万物以聚。礼義惟立。武徳以行。而後可称墺区。可謂土中。本朝者。始有中柱中国之号。況神武帝制中州都墺区。共皆得其精秀。及平安城。選之極。中之至。一帰神聖立国之道。故時序正。而寒暑不過。土壤膏沃。而人物文章。中州中華之名実相斉。建都之制大備。是乃墺区之生成也。〔以上。建都邑之始。〕

書き下し

崇神帝十年七月、群卿を選びて四方に遣わす。同年十月、四道将軍に命じて、以て戎夷を平らぐるの状を奏せしむ。 謹んで按ずるに、是れ中国に四道を分かつの始めなり。此の時、王化未だ習わず。故に此の命有り。 成務帝五年秋九月、山河を隔てて国県を分かち、阡陌に随いて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰い、山陰を背面と曰う。是れを以て百姓安居し、天下事無し。 謹んで按ずるに、是れ中国に国境を分かち諸道を定むるの始めなり。蓋し景行帝五十五年、彦狭島王を以て東山道十五国の都督に拝す。則ち東山道等の名は既に前朝に在り。〔崇峻帝二年、東山・北陸・東海の観察使有り。此の時、或いは七道を定むるか。孝徳帝に及び、新式を定めて、始めて五畿七道の制有り。〕凡そ村里は以て県を統べ、県は以て郡を統べ、郡は以て国を統べ、国は以て道を統ぶ。是れ一より十に迄り、十より一に帰す。猶お身の臂を使い、臂の指を使うがごとし。一元気、四支百骸を周還す。故に天下の大、四海の遠きも、王化通ぜざる無く、正朔受けざる無きなり。王畿は七道の宗とする所なり。幾内は王室の小天下なり。幾内の制明らかなれば、則ち七道風に随いて正し。是れ乃ち北辰の其の所に居て衆星之に共うなり。聖帝、水土の制を詳らかにし、百姓安居し、天下事無く、万世之に因りて損益す。帝の功、亦た大ならずや。〔以上、道境を分かつの始めを論ず。〕 神武帝東征の己未の年、令を下して曰く、当に山林を披き払い、宮室を経営して、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養いたまいし心を弘めん。然る後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さんこと、亦た可ならずや。夫の畝傍山〔畝傍山、此れを宇禰縻夜摩と云う。〕の東南、橿原の地を観れば、蓋し国の墺区か。治むべし、と。即ち有司に命じて帝都を経始せしむ。 先人曰く、帝、神代の迹を継ぎ、日向国の宮崎宮に都す、と。 謹んで按ずるに、是れ中州に都を営むの初めなり。墺区は猶お最中と言うがごとし。〔墺は、四方の土の居るべきなり。区は、物の止まり蔵むべきなり。〕蓋し帝は天下の蒼生を平章するを以て大任と為し、深く思い切に謀りて、天帝授命の重きを守り、天孫悠久の業を開く。遂に東征して以て中州を制し、始めて都宮の地を議し、後世の規を建て、以て万万世に永祚せんとす。此の後、国勢富庶にして、人物日に盛んなり。而して代代遷都有り。元明帝に至り、都を平城に遷し、以て七代の聖風を揚ぐ。桓武帝に終わりて、先聖の成烈を篤くし、億民の止まる所を安んぜんと欲し、天の休を敬し、人の順を致す。詔して新都の地を視しめ、惟れ土は中を以てし、惟れ卜は食を以てし、惟れ民は興るを以てす。故に大命庶官、以て土中に服す。都を山州の平安城に遷し、明徳を万億世に振るう。是れ乃ち神武帝の墺区の実なり。古人云う、都を遷すの君は皆な復た振るわず、と。中州の遷都、豈に夫れ然らんや。夷狄の害に違るるに非ず、盗劫の難を畏るるに非ず。唯だ富庶世に充ちて、土壌給せず。故に遷都日に振い、国勢彌いよ張るなり。夫れ京師は四方の極たること、猶お紫宮の周天の極たるがごとし。其の都邑を選ぶや、其の中に非ざれば乃ち其の実を得ず。所謂る中とは精秀の気、天地以て位し、四時違わず、陰陽惟れ中、寒暑過ぎず、人民以て止まり、万物以て聚まり、礼義惟れ立ち、武徳以て行わるるなり。而して後に墺区と称すべし、土中と謂うべし。本朝は始めて中柱・中国の号有り。況んや神武帝の中州に都を制し墺区に都するをや。共に皆な其の精秀を得たり。平安城に及び、選びの極、中の至りなり。一に神聖立国の道に帰す。故に時序正しくして寒暑過ぎず、土壌膏沃にして人物文章あり。中州・中華の名実相い斉し。建都の制大いに備わる。是れ乃ち墺区の生成なり。〔以上、都邑を建つるの始め。〕

現代語訳

崇神帝十年七月、多くの重臣を選んで四方に派遣した。同年十月、四道将軍に命じて、異民族を平定した状況を報告させた。 素行はこう考える。これは中国(日本)を四道に分けた始めである。この時はまだ王の教化が行き渡っていなかった。だからこの命令があった。 成務帝五年秋九月、山や川を境にして国・県を分け、あぜ道に従って村里を定めた。そして東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南側を影面といい、山の北側を背面といった。こうして人々は安らかに暮らし、天下は無事であった。 素行はこう考える。これは中国に国境を分け諸道を定める始めである。景行帝五十五年に彦狭島王を東山道十五国の都督に任じている。であれば東山道などの名はすでに前の時代にあった。(崇峻帝二年に東山・北陸・東海に観察使を置いた。この時、あるいは七道を定めたのか。孝徳帝に至り新しい制度を定め、はじめて五畿七道の制ができた。)村里が県を統べ、県が郡を統べ、郡が国を統べ、国が道を統べる。これは一から十に及び、十から一に帰る。身が腕を使い、腕が指を使うようなものである。一つの元気が手足や全身を巡る。だから天下は大きく、四海は遠くても、王の教化が通じないところはなく、暦を受けないところはない。王畿は七道が宗とするところである。幾内は王室の小さな天下である。幾内の制度が明らかなら、七道は風になびくように正される。これは北極星がその所にいて、衆星がそれに向かうようなものである。聖帝は風土の制度を詳しく定め、人々は安らかに暮らし、天下は無事となり、万世の人々がこれに従って加減した。その功はまことに大きい。(以上、道の境を分ける始めを論じた。) 神武帝が東征した己未の年、令を下して言った。山林を切り開き、宮室を造営して、謹んで皇位につき、人々を鎮めるべきである。上は天の霊が国を授けた徳に答え、下は皇孫が正を養った心を広めよう。その後に天下を併せて都を開き、世界を覆って家とすることも、またよいではないか。あの畝傍山(「うねびやま」と読む)の東南の橿原の地を見ると、国の奥まった中心の地であろう。ここを治めるべきである、と。そこで役人に命じて帝都の造営を始めさせた。 先に述べたように、帝は神代の事跡を継いで、日向国の宮崎宮に都していた。 素行はこう考える。これは中州に都を営んだ始めである。墺区は「最中」というのと同じである。(墺は四方の土が住むことのできる所、区は物が止まり蔵められる所である。)思うに、帝は天下の人々を治めることを大任とし、深く考え切に謀って、天帝の命を授かった重さを守り、天孫の悠久の業を開いた。ついに東征して中州を制し、はじめて都と宮の地を議し、後世の規範を建てて、万万世に長く皇位を栄えさせようとした。この後、国勢は豊かで人も日に盛んになり、そして代々遷都があった。元明帝に至って平城に都を遷し、七代の聖風を揚げた。桓武帝に至って、先聖の成した事業を篤くし、億民の止まる所を安んじようとし、天の恵みを敬い、人の従順を尽くした。詔して新都の地を視察させ、土地は中であること、卜は食(吉)であること、民が興ることを基準とした。そこで多くの官を大命で土中に従わせた。都を山州(山城)の平安城に遷し、明徳を万億世に振るった。これが神武帝の墺区の実である。古人は、都を遷した君主はみな再び振るわない、と言う。しかし中州の遷都はそうではない。夷狄の害を避けたのでもなく、盗賊の難を恐れたのでもない。ただ人口と富が世に満ちて土地が足りなくなったのである。だから遷都のたびに勢いを増し、国勢はますます張った。京師が四方の極であることは、紫宮が周天の極であるのと同じである。都邑を選ぶとき、その中でなければ実を得ない。いわゆる中とは、精秀の気があり、天地が位を定め、四季が違わず、陰陽が中を得て、寒暑が過ぎず、人民が止まり、万物が集まり、礼義が立ち、武徳が行われることである。その後に墺区と称すべく、土中と言うべきである。本朝は始めから中柱・中国の号があった。まして神武帝が中州に都を定め、墺区に都したのである。どちらも精秀を得ている。平安城に至って、選びの極み、中の至りとなった。すべて神聖が国を立てた道に帰する。だから季節が正しく寒暑が過ぎず、土壌は肥沃で人物や文章があり、中州と中華の名と実が等しくなり、都を建てる制が大いに備わった。これが墺区の生成である。(以上、都邑を建てる始め。)

解説

国土を道・国・郡・村里へと分け、都を橿原から平安京へ定めていく過程を論じた箇所です。『日本書紀』の崇神紀・成務紀・神武紀を引き、素行は階層的な統治を、一つの元気が手足を巡る身体にたとえます。都は極に当たるので、選び方が国全体の運を決めるという見方です。現代の組織にも、拠点の配置、中間管理の層、本社の置き場所という同じ問いがあります。層を増やすほど意図が末端に届きにくくなるので、組織の構造が誰の判断を誰に届ける仕組みになっているのかを見直す手がかりになります。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

四道将軍国郡制五畿七道墺区橿原平安遷都

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