中朝事実 / 中國章・四道将軍と国郡の区分・都の選定
崇神帝十年七月。選群卿遣四方。同年十月。命四道將軍。以平戎夷之狀。 謹按。是中國分四道之始也。此時王化未習。故有此命。 成務帝五年秋九月。隔山河而分國縣。隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱。南北爲日橫。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。 謹按。是中國分國境定諸道之始。蓋景行帝五十五年。以彥狹島王拜東山道十五國都督。則東山道等之名既在前朝也。〔崇峻帝二年。有東山北陸東海觀察使。此時或定七道乎。及孝德帝。〕〔定新式。始有五畿七道制。〕凡村里以統縣。縣以統郡。郡以統國。國以統道。是自一迄十。自十歸一。猶身使臂。臂使指一元氣周還四支百骸。故天下之大。四海之遠。王化無不通。正朔無不受也。王畿者。七道所以宗之。幾內者王室之小天下也。幾內之制明。則七道隨風而正。是乃北辰居其所而衆星共之也。聖帝詳水土之制。百姓安居。天下無事萬世因之以損益焉。帝之功不亦大乎哉。〔以上。論分道境之始。〕 神武帝東征己未年。下令曰。當披拂山林。經營宮室。而恭臨寶位。以鎭元元。上則答乾靈授國之德。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇。不亦可乎。觀夫畝傍山〔畝傍山。此云宇禰縻夜摩。〕東南橿原地者。蓋國之墺區乎。可治之。卽命有司經始帝都。 先人曰。帝繼神代之迹。都日向國宮崎宮。 謹按。是中州營都之初也。墺區猶言最中。〔墺、四方土可居也。區、物可止藏也。〕蓋帝以平章於天下之蒼生爲大任。深思切謀守天帝授命之重。開天孫悠久之業。遂東征以制中州。始議都宮之地。建後世之規。以永祚於萬萬世也。此後國勢富庶。人物日盛。而代代有遷都。至元明帝。遷都於平城。以揚七代之聖風。終桓武帝。欲篤先聖之成烈安億民之所止。敬天之休。致人之順。詔達視新都之地。惟土以中。惟卜以食。惟民以興。故大命庶官。以服于土中。遷都於山州平安城。振明德於萬億世。是乃神武帝墺區之實也。古人云。遷都之君皆不復振。中州之遷都豈夫然乎。非違夷狄之害。非畏盜劫之難。唯富庶世充。土壤不給。故遷都日振。國勢彌張矣。夫京師爲四方之極。猶紫宮爲周天之極也。其選都邑非其中乃不得其實。所謂中者精秀之氣。天地以位。四時不違。陰陽惟中。寒暑不過。人民以止。萬物以聚。禮義惟立。武德以行。而後可稱墺區。可謂土中。本朝者。始有中柱中國之號。況神武帝制中州都墺區。共皆得其精秀。及平安城。選之極。中之至。一歸神聖立國之道。故時序正。而寒暑不過。土壤膏沃。而人物文章。中州中華之名實相齊。建都之制大備。是乃墺區之生成也。〔以上。建都邑之始。〕
新字:崇神帝十年七月。選群卿遣四方。同年十月。命四道将軍。以平戎夷之状。 謹按。是中国分四道之始也。此時王化未習。故有此命。 成務帝五年秋九月。隔山河而分国県。随阡陌以定邑里。因以東西為日縦。南北為日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。 謹按。是中国分国境定諸道之始。蓋景行帝五十五年。以彦狭島王拝東山道十五国都督。則東山道等之名既在前朝也。〔崇峻帝二年。有東山北陸東海観察使。此時或定七道乎。及孝徳帝。〕〔定新式。始有五畿七道制。〕凡村里以統県。県以統郡。郡以統国。国以統道。是自一迄十。自十帰一。猶身使臂。臂使指一元気周還四支百骸。故天下之大。四海之遠。王化無不通。正朔無不受也。王畿者。七道所以宗之。幾内者王室之小天下也。幾内之制明。則七道随風而正。是乃北辰居其所而衆星共之也。聖帝詳水土之制。百姓安居。天下無事万世因之以損益焉。帝之功不亦大乎哉。〔以上。論分道境之始。〕 神武帝東征己未年。下令曰。当披払山林。経営宮室。而恭臨宝位。以鎮元元。上則答乾霊授国之徳。下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都。掩八紘而為宇。不亦可乎。観夫畝傍山〔畝傍山。此云宇祢縻夜摩。〕東南橿原地者。蓋国之墺区乎。可治之。即命有司経始帝都。 先人曰。帝継神代之迹。都日向国宮崎宮。 謹按。是中州営都之初也。墺区猶言最中。〔墺、四方土可居也。区、物可止蔵也。〕蓋帝以平章於天下之蒼生為大任。深思切謀守天帝授命之重。開天孫悠久之業。遂東征以制中州。始議都宮之地。建後世之規。以永祚於万万世也。此後国勢富庶。人物日盛。而代代有遷都。至元明帝。遷都於平城。以揚七代之聖風。終桓武帝。欲篤先聖之成烈安億民之所止。敬天之休。致人之順。詔達視新都之地。惟土以中。惟卜以食。惟民以興。故大命庶官。以服于土中。遷都於山州平安城。振明徳於万億世。是乃神武帝墺区之実也。古人云。遷都之君皆不復振。中州之遷都豈夫然乎。非違夷狄之害。非畏盗劫之難。唯富庶世充。土壤不給。故遷都日振。国勢弥張矣。夫京師為四方之極。猶紫宮為周天之極也。其選都邑非其中乃不得其実。所謂中者精秀之気。天地以位。四時不違。陰陽惟中。寒暑不過。人民以止。万物以聚。礼義惟立。武徳以行。而後可称墺区。可謂土中。本朝者。始有中柱中国之号。況神武帝制中州都墺区。共皆得其精秀。及平安城。選之極。中之至。一帰神聖立国之道。故時序正。而寒暑不過。土壤膏沃。而人物文章。中州中華之名実相斉。建都之制大備。是乃墺区之生成也。〔以上。建都邑之始。〕
書き下し
崇神帝十年七月、群卿を選びて四方に遣わす。同年十月、四道将軍に命じて、以て戎夷を平らぐるの状を奏せしむ。 謹んで按ずるに、是れ中国に四道を分かつの始めなり。此の時、王化未だ習わず。故に此の命有り。 成務帝五年秋九月、山河を隔てて国県を分かち、阡陌に随いて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰い、山陰を背面と曰う。是れを以て百姓安居し、天下事無し。 謹んで按ずるに、是れ中国に国境を分かち諸道を定むるの始めなり。蓋し景行帝五十五年、彦狭島王を以て東山道十五国の都督に拝す。則ち東山道等の名は既に前朝に在り。〔崇峻帝二年、東山・北陸・東海の観察使有り。此の時、或いは七道を定むるか。孝徳帝に及び、新式を定めて、始めて五畿七道の制有り。〕凡そ村里は以て県を統べ、県は以て郡を統べ、郡は以て国を統べ、国は以て道を統ぶ。是れ一より十に迄り、十より一に帰す。猶お身の臂を使い、臂の指を使うがごとし。一元気、四支百骸を周還す。故に天下の大、四海の遠きも、王化通ぜざる無く、正朔受けざる無きなり。王畿は七道の宗とする所なり。幾内は王室の小天下なり。幾内の制明らかなれば、則ち七道風に随いて正し。是れ乃ち北辰の其の所に居て衆星之に共うなり。聖帝、水土の制を詳らかにし、百姓安居し、天下事無く、万世之に因りて損益す。帝の功、亦た大ならずや。〔以上、道境を分かつの始めを論ず。〕 神武帝東征の己未の年、令を下して曰く、当に山林を披き払い、宮室を経営して、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養いたまいし心を弘めん。然る後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さんこと、亦た可ならずや。夫の畝傍山〔畝傍山、此れを宇禰縻夜摩と云う。〕の東南、橿原の地を観れば、蓋し国の墺区か。治むべし、と。即ち有司に命じて帝都を経始せしむ。 先人曰く、帝、神代の迹を継ぎ、日向国の宮崎宮に都す、と。 謹んで按ずるに、是れ中州に都を営むの初めなり。墺区は猶お最中と言うがごとし。〔墺は、四方の土の居るべきなり。区は、物の止まり蔵むべきなり。〕蓋し帝は天下の蒼生を平章するを以て大任と為し、深く思い切に謀りて、天帝授命の重きを守り、天孫悠久の業を開く。遂に東征して以て中州を制し、始めて都宮の地を議し、後世の規を建て、以て万万世に永祚せんとす。此の後、国勢富庶にして、人物日に盛んなり。而して代代遷都有り。元明帝に至り、都を平城に遷し、以て七代の聖風を揚ぐ。桓武帝に終わりて、先聖の成烈を篤くし、億民の止まる所を安んぜんと欲し、天の休を敬し、人の順を致す。詔して新都の地を視しめ、惟れ土は中を以てし、惟れ卜は食を以てし、惟れ民は興るを以てす。故に大命庶官、以て土中に服す。都を山州の平安城に遷し、明徳を万億世に振るう。是れ乃ち神武帝の墺区の実なり。古人云う、都を遷すの君は皆な復た振るわず、と。中州の遷都、豈に夫れ然らんや。夷狄の害に違るるに非ず、盗劫の難を畏るるに非ず。唯だ富庶世に充ちて、土壌給せず。故に遷都日に振い、国勢彌いよ張るなり。夫れ京師は四方の極たること、猶お紫宮の周天の極たるがごとし。其の都邑を選ぶや、其の中に非ざれば乃ち其の実を得ず。所謂る中とは精秀の気、天地以て位し、四時違わず、陰陽惟れ中、寒暑過ぎず、人民以て止まり、万物以て聚まり、礼義惟れ立ち、武徳以て行わるるなり。而して後に墺区と称すべし、土中と謂うべし。本朝は始めて中柱・中国の号有り。況んや神武帝の中州に都を制し墺区に都するをや。共に皆な其の精秀を得たり。平安城に及び、選びの極、中の至りなり。一に神聖立国の道に帰す。故に時序正しくして寒暑過ぎず、土壌膏沃にして人物文章あり。中州・中華の名実相い斉し。建都の制大いに備わる。是れ乃ち墺区の生成なり。〔以上、都邑を建つるの始め。〕
現代語訳
崇神帝十年七月、多くの重臣を選んで四方に派遣した。同年十月、四道将軍に命じて、異民族を平定した状況を報告させた。 素行はこう考える。これは中国(日本)を四道に分けた始めである。この時はまだ王の教化が行き渡っていなかった。だからこの命令があった。 成務帝五年秋九月、山や川を境にして国・県を分け、あぜ道に従って村里を定めた。そして東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南側を影面といい、山の北側を背面といった。こうして人々は安らかに暮らし、天下は無事であった。 素行はこう考える。これは中国に国境を分け諸道を定める始めである。景行帝五十五年に彦狭島王を東山道十五国の都督に任じている。であれば東山道などの名はすでに前の時代にあった。(崇峻帝二年に東山・北陸・東海に観察使を置いた。この時、あるいは七道を定めたのか。孝徳帝に至り新しい制度を定め、はじめて五畿七道の制ができた。)村里が県を統べ、県が郡を統べ、郡が国を統べ、国が道を統べる。これは一から十に及び、十から一に帰る。身が腕を使い、腕が指を使うようなものである。一つの元気が手足や全身を巡る。だから天下は大きく、四海は遠くても、王の教化が通じないところはなく、暦を受けないところはない。王畿は七道が宗とするところである。幾内は王室の小さな天下である。幾内の制度が明らかなら、七道は風になびくように正される。これは北極星がその所にいて、衆星がそれに向かうようなものである。聖帝は風土の制度を詳しく定め、人々は安らかに暮らし、天下は無事となり、万世の人々がこれに従って加減した。その功はまことに大きい。(以上、道の境を分ける始めを論じた。) 神武帝が東征した己未の年、令を下して言った。山林を切り開き、宮室を造営して、謹んで皇位につき、人々を鎮めるべきである。上は天の霊が国を授けた徳に答え、下は皇孫が正を養った心を広めよう。その後に天下を併せて都を開き、世界を覆って家とすることも、またよいではないか。あの畝傍山(「うねびやま」と読む)の東南の橿原の地を見ると、国の奥まった中心の地であろう。ここを治めるべきである、と。そこで役人に命じて帝都の造営を始めさせた。 先に述べたように、帝は神代の事跡を継いで、日向国の宮崎宮に都していた。 素行はこう考える。これは中州に都を営んだ始めである。墺区は「最中」というのと同じである。(墺は四方の土が住むことのできる所、区は物が止まり蔵められる所である。)思うに、帝は天下の人々を治めることを大任とし、深く考え切に謀って、天帝の命を授かった重さを守り、天孫の悠久の業を開いた。ついに東征して中州を制し、はじめて都と宮の地を議し、後世の規範を建てて、万万世に長く皇位を栄えさせようとした。この後、国勢は豊かで人も日に盛んになり、そして代々遷都があった。元明帝に至って平城に都を遷し、七代の聖風を揚げた。桓武帝に至って、先聖の成した事業を篤くし、億民の止まる所を安んじようとし、天の恵みを敬い、人の従順を尽くした。詔して新都の地を視察させ、土地は中であること、卜は食(吉)であること、民が興ることを基準とした。そこで多くの官を大命で土中に従わせた。都を山州(山城)の平安城に遷し、明徳を万億世に振るった。これが神武帝の墺区の実である。古人は、都を遷した君主はみな再び振るわない、と言う。しかし中州の遷都はそうではない。夷狄の害を避けたのでもなく、盗賊の難を恐れたのでもない。ただ人口と富が世に満ちて土地が足りなくなったのである。だから遷都のたびに勢いを増し、国勢はますます張った。京師が四方の極であることは、紫宮が周天の極であるのと同じである。都邑を選ぶとき、その中でなければ実を得ない。いわゆる中とは、精秀の気があり、天地が位を定め、四季が違わず、陰陽が中を得て、寒暑が過ぎず、人民が止まり、万物が集まり、礼義が立ち、武徳が行われることである。その後に墺区と称すべく、土中と言うべきである。本朝は始めから中柱・中国の号があった。まして神武帝が中州に都を定め、墺区に都したのである。どちらも精秀を得ている。平安城に至って、選びの極み、中の至りとなった。すべて神聖が国を立てた道に帰する。だから季節が正しく寒暑が過ぎず、土壌は肥沃で人物や文章があり、中州と中華の名と実が等しくなり、都を建てる制が大いに備わった。これが墺区の生成である。(以上、都邑を建てる始め。)
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『中朝事実』中國章・中国の称と神武帝の東征・都の選び方皇祖高皇産霊尊、遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、以て葦原中国の主と為さんと欲す。 謹んで按ずるに、是れ本朝を以て中国と為すの謂なり。是より先、天照太神、天上に在して曰く、葦原中国に保食神有りと聞く、と。然れば則ち中国の称は、往古より既に此れ有るなり。凡そ人物の生成は、一日として未だ曾て水土を襲わずんばあらず。故に平易の土に生成すれば、平易の気を禀けて、性情自ら平易なり。険難の土に生成すれば、険難の気を禀けて、性情危険に堪う。豈に唯だ人のみならんや。鳥獣草木も亦た然り。是れ五方の民、皆な性有りて其の俗を異にする所以なり。蓋し中に、天の中有り、地の中有り、水土人物の中有り、時宜の中有り。故に外〔羅か〕朝に土中に服するの説有り、迦維に天地の中なりとの言有り、南人も亦た天の中を得たりと曰う。愚按ずるに、天地の運る所、四時の交わる所、其の中を得れば、則ち風雨寒暑の会偏らず、故に水土沃にして人物精なり。是れ乃ち中国と称すべし。万邦の衆、唯だ本朝及び外朝のみ其の中を得たり。而して本朝は神代に既に天御中主尊有り、二神国中の柱を建つ。則ち本朝の中国たること、天地自然の勢いなり。神神相生まれ、聖皇連綿として、文武事物の精秀、実に以て相応ず。是れ豈に誣称ならんや。 神武帝、神代の迹を継ぎ、日向国の宮崎宮に都す。曰く、東に美地有り、青山四周せり。彼の地は必ず以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし。蓋し六合の中心か、と。遂に東征して初めて中州を平らげ、大倭国の畝傍山の東南、橿原の地を観て、帝宅を経始す。 謹んで按ずるに、運は鴻荒に属し、時は草昧に鍾る。蚰龍鳥虫は処を得、異人は疆を分かちて陵躒す。唯だ此の西辺のみ以て治むべし。故に天孫先ず此に降り、多くの年を歴て、以て正を養う。神武帝に逮び、王沢既に霑い、当に天業を恢弘し天下に光宅するに足るべし。故に此の東征有り、始めて中州の実を拡ぐ。蓋し西は金、東は木なり。西より東に及ぶは、征伐の相剋なり。東より西に及ぶは、化育の相生なり。左旋右行は、乃ち天地日月五行の道、至誠息む無きなり。聖皇の征治は、乾坤以て法るべし。或ひと疑う、二神磤馭廬島を以て国中の柱と為し、廼ち大日本を生む。然れば乃ち天孫の降、何ぞ西偏に在るや、と。愚竊かに謂えらく、是れ末季の俗意を以て、上古の霊神を量るなり。甚だ意見臆説に渉るなり。神聖の道は悠久にして、其の功成る。先ず其の易きに因りて其の極を建て、其の過化を考えて其の業を洪にす。故に其の成るや久しく、其の根本や固し。実に万世不抜の大基なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久にして疆り無し。二神の国中の柱と為すは、大日本の中州と為すべき所以の言なり。二神の聖、既に万世に鑑みて、此の洲を以て中国と為し、天孫を以て此の洲に主たらしむ。其の天鑑の巍巍たるかな。
-
『中朝事実』中國章・辺境の守りと四道将軍・蝦夷への備え崇神帝十年冬十月乙卯朔、群臣に詔して曰く、今返る者、悉く伏誅す。幾内事無し。唯だ海外荒倍し、騒動未だ止まず。其の四道将軍等、今忽ちに発て、と。丙子、将軍等共に路に発つ。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍、戎夷を平らぐるの状を以て奏す。是の歳、異俗多く帰す。国内安寧なり。 謹んで按ずるに、二神、守るべきの境を定めて後、鴻蒙草昧にして封疆未だ分かたず。神武帝、天業を経綸し、中州を制して後も、又た未だ化徳を弘恢せず。帝は識性聡敏にして、尤も雄謀有り。故に大いに四方を開き、以て辺要を規る。下に逸民無く、教化流行す。終に蒼生の課役を正し、船舶の運転を利して、天下大平なり。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武内宿禰を遣わし、北陸及び東方の諸国の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年春二月辛酉朔壬子、武内宿禰、東国より還りて奏して言う、東夷の中に日高見国有り。其の国人は男女並びに椎結文身し、人と為り勇悍なり。是れを総じて蝦夷と曰う、と。四十年夏六月、東夷多く叛き、辺境騒動す。冬十月、日本武尊に命じて之を征せしむ。蝦夷罪に服す。五十三年、東海に巡狩す。 謹んで按ずるに、帝、自ら西州を征し、東方を巡狩し、七十余子を封建し、各おの其の国の如くせしむ。是れ乃ち四方の辺境を定め、王室の藩屏と為すなり。 成務帝四年春二月丙寅、国郡に長を立て、県邑に首を置く。当国の幹了なる者を取りて、其の国郡の首長に任ず。是れ中区の藩屏と為すなり。五年秋九月、山河を隔てて国県を分かち、阡陌に随いて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰い、山陰を背面と曰う。 謹んで按ずるに、天下の辺要は、帝に逮びて其の制相成る。蓋し辺要とは天下の藩屏なり。四辺は唯だ陸奥・出羽・佐渡・対島・多禰を以て辺要国と為し、太宰府・鎮守府を以て藩鎮の所と為す。鎮西府とは、異域の襲来に備うるなり。鎮守府とは、蝦夷の跋扈を征するなり。異域は竟に辺境を侵すを得ず。蝦夷は数しば東藩を寇す。故に国守有り、将軍有り、両国按察使府・秋田城介有り。信夫郡以南の租税を以て国府の公廨に充て、苅田以北の稲穀を以て鎮府の兵粮に充つ。常に五千人の兵を置き、許多の兵器を運送す。是れ辺要を慎むなり。凡そ承平の治、王化の沢、下に浴さざる無し。而して辺境の広く、遠人の信は、必ず教えを異にし風を殊にす。故に其の弊、或いは盗賊劫窃し、山に入りて険に拠り、或いは吏務の奸謀に因りて、辺民恨みを含むの事、未だ嘗て無くんばあらず。故に吏幹の才を択び、巡察の使を詳らかにして、以て辺疆を安んず。是れ上古の聖戒なり。豈に忽せにすべけんや。〔以上、辺要を守るの備え。〕 以上、水土の規制を論ず。謹んで按ずるに、地は天の中に在り、中に又た四辺無くんばあらず。而して其の中を得るを中国と曰う。天地の中を得るを言うなり。天地の中とは何ぞ。四時行われ、寒暑順い、水土人物甚だ美にして、過不及の差無き、是れなり。万邦の衆、唯だ中州及び外朝のみ天地の中を得たり。故に人物事義、大いに異ならず。其の極を建て、以て聖教を致すこと、殆ど節を合わすが如し。〔外朝鮮も亦た水土を同じくす。然れども朝鮮とは外朝と封域を同じくす。唯だ其の東藩に在るのみ。〕蓋し土地有れば、則ち国郡有り。国郡有れば則ち都鄙の分有り。而して王畿を設け、都宮を建て、道路を制し、四方以て之に通じ、四藩以て之を屏る。故に其の規や、其の制や、未だ嘗て其の道を尽くさずんばあらず。凡そ上は天象に法り、下は地勢を詳らかにし、人物の計会を校べ、治乱の機を察して、以て其の礼用を致し、以て其の至誠を尽くせば、則ち遠近・都鄙・内外、同じく其の俗を同じくし、其の利を通ずるなり。天下の大、国郡の区、一々挙ぐべからずと雖も、朝廷より邦畿に及び、王畿より四方に及び、四方より四疆に至ること、猶お一元気の周流し、四支百骸を営衛して、以て諸を一胸臆に統ぶるがごとし。然れば乃ち朝廷・王畿は、天下の規範にして、兆民の具に瞻る所なり。豈に一人の私を縦にし、当時の治を伐ちて、其の規制を致さざるべけんや。
-
『中朝事実』中國章・宮殿の起こりと平安宮の制伊弉諾尊・伊弉冊尊、降り居しまして磤馭廬島に、八尋の殿を化作し、又た天柱を化竪てたまう。 謹んで按ずるに、是れ天神宮殿の始めなり。今其の制は言うべからず。八は四方四隅の数、天は人物の法る所なり。能く其の実を詳らかにすれば、則ち万世の規制も又た此に始まるなり。 神武帝辛酉、畝傍の橿原に於いて、太く宮柱を底磐の根に立て、峻く搏風を高天の原に峙つ。 一書に曰く、神武帝、都を橿原に建て、帝宅を経営す。仍りて天富命〔太玉命の孫〕をして、手置帆負・彦狭知の二神の孫を率いて、斎斧・斎鉏を以て始めて山材を採り、正殿を構え立てしむ。所謂る底都磐根に宮柱布都之利立て、高天乃原に搏風高之排き、皇孫命乃美豆乃御殿を造り奉仕うるなり。故に其の裔、今紀伊国名草郡の御木・麁香二郷に在り。〔材を採る斎部の居る所、之を御木と謂う。殿を造る斎部の居る所、之を麁香と謂う。〕 謹んで按ずるに、是れ人皇宮殿の始めなり。此の時、荒濛の世を去ること未だ遠からず。唯だ正殿を構え、以て神代の天柱に象り、万世の洪基を始むるなり。凡そ宮とは室なり。殿とは堂の高大にして、屋の厳正なるなり。人必ず居有り、居有れば則ち未だ嘗て宮殿無くんばあらず。況んや人君をや。況んや帝居をや。既に宮殿有らば、則ち制度無くんばあらず。故に経始の営は、上は天時を正して以て文明に象り、下は水土に随いて以て豊約を量り、中は百世を考えて以て聖賢に模す。樸ならず断ならず、泰を去り甚だしきを去り、折中して以て当時に儀形し、万代に垂示す。是れ乃ち天神天柱の実か。蓋し中州代代の経営は、専ら簡樸にして、力を溝洫に尽くす。唯だ大極殿・大安殿の名有るは、是れ乃ち宮殿なり。〔大極殿は以て朝に臨み、大安殿は以て群臣を宴す。是れ宮と殿となり。〕桓武帝、都を平安城に遷し、先王を牢籠し、異域を鑑察し、大いに規模を張る。新門を造り、新宮を営み、其の門に名づけ、金榜を題す。〔釈弘法・橘逸勢・小野道風・藤原行成、其の字を書く。〕其の殿に名づくるに嘉言を以てす。前殿を紫宸と曰う。其の制は外朝の明堂に肖る。乃ち万国を饗し諸侯を朝せしむる所なり。〔秦漢は前殿と曰い、周は明堂・路寝と曰う。帝居を以て天の紫宮に象る。〕又た南殿と曰うは、天子扆を負いて南に嚮いて政を聴くの義なり。中殿を清涼と曰う。常の宸居の所なり。又た御殿と曰う。平生宴遊の所なり。後殿を貞観と曰う。乃ち后宮なり。此の外、宮殿・堂楼・院閣、丹墀青瑣、金鋪玉扉〔音は俟、砌なり。〕井欄綺窓、善を尽くし美を尽くさざる無し。図するに河洛賢聖を以てし、大舜の古人の象を視るに法る。像するに乾坤の儀形を以てし、聖皇の宮柱を立てたまいし太きを守る。九重の深邃を厳にし、九条の広路を披き、十二の通門迭いに洞し、十七の宝殿珠のごとく聯なる。宸儀を以て仰げば彌いよ高く、法座は則ち彌いよ正し。彼の固陋に事え紛奢を愛するが如きは、同日にして語るべからず。〔以上、宮城を制するの義。〕
-
『中朝事実』神知章・四道将軍と大臣・守令の選任崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕
-
『中朝事実』聖政章・民心と習俗を察する政教の始め神武帝己未の年春三月辛酉朔丁卯、令を下して曰く、「今、運此の屯蒙に屬し、民心朴素なり。巢に棲み穴に住み、習俗惟れ常なり。夫れ大人の制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民を利する有らば、何ぞ聖造を妨げん」と。 謹んで按ずるに、是れ政令の始めなり。民心は天下の人心なり。習俗は人皆習ひて以て俗と爲すなり。言ふこころは、天下屯蒙にして、人心詐僞に與せず、穴居野處して以て習俗と爲す。今帝天を繼ぎ極を建て、以て天下の禮を正さんと欲し、其の舊俗を新たにす。故に此の詔有るなり。人心の朴素は、善政に染まり易きが如く、而して習俗の舊汚は又變じ難し。時義、是れ革むるの時、又大なり。聖英の天縱に非ざれば、之を得べからざるなり。蓋し政の要は民心と習俗とを察するに在り。人心は必ず俗と與に化し、善惡以て成る。人君政を立て敎率を明らかにすれば、則ち民心化して風俗成る。風俗の成るは習熟の久しきに在り。習熟久しければ則ち民其の然るを識らず。故に曰く、政の要は民心と習俗とを察するに在り、と。此の章、政敎の大體を盡くすと謂ふべし。〔以上、政敎の大體。〕 四年春二月壬戌朔甲申、詔して曰く、「我が皇祖の靈や、天より降り鑒み、光りて朕が躬を助けたまふ。今諸々の虜已に平らぎ、海内事無し。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべし」と。乃ち靈畤を鳥見山の中に立つ。其の地を號して上小野榛原・下小野榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭る。 先人曰く、神武天皇、都を大和國橿原に定む。時に三種の神寶を以て大殿に安置し、床を同じくして坐したまふ。蓋し往古の神勅の如し。此れに由りて皇居と神宮と差別無し。宮中に庫藏〔此に齋藏と云ふ。〕を立て、宮物・神物分かつ無し。此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、天下の政事は郊社宗廟の祭祀より大なるは莫し。夫れ人君は天地を以て父母と爲す。況んや帝は乾靈天孫の統を承け、以て四海に臨むをや。蓋し神に交はるの道は誠に在り。至誠以て祭祀すれば、則ち鬼神の幽冥も亦格思すべし。蕞爾たる黎民も、至誠以て之を求むれば、則ち感ぜざる無し。故に往古は神祇の祭祀と朝廷の政事と、其の義を二にせず。深いかな。〔俗に政を訓みて祭事とするは是れなり。〕凡そ祭祀を主る者は、皆朝政を執る。天種子命・神八井耳命の如きは是れなり。〔神八井耳命は、神武帝の皇子、綏靖帝の兄なり。神八井耳命曰く、「吾は是れ乃の兄なり。而るに懦弱にして果を致す能はず。今汝特に神武を挺し、自ら元惡を誅す。宜なるかな。汝の天位に光臨し、以て皇祖の業を承くること。吾當に汝の爲に輔けて神祇を典り奉るべし」と。是れ卽ち多臣の始祖なり。〕帝、神勅を守り、以て靈器を敬ふ。且つ天神を郊祀し、用て大孝を申ぶ。其の兢兢業業として政敎を愼むは、萬世の規戒なり。〔以上、祭政の實。〕 崇神帝十年秋七月丙戌朔己酉、群卿に詔して曰く、「民を導くの本は、敎化に在り。今既に神祇を禮し、災害皆耗せり。然れども遠荒の人等、猶ほ正朔を受けず。是れ未だ王化に習はざるのみ。其れ群卿を選びて四方に遣はし、朕が憲を知らしめよ」と。 謹んで按ずるに、是れ行人を發して以て敎を四方に施すの始めなり。導は啓迪なり。敎化に至らざれば、則ち民と敎と別なり。民情化適して敎成る、之を敎化と謂ふ。正朔は王曆なり。天下皆正朔を受くるは、其の天に事ふるを同じくするなり。正朔を受けざれば則ち民俗を殊にす。王化は天下皆其の敎令を守りて其の三綱を正すなり。王化未だ習はざれば則ち民意を異にするなり。憲は法なり。憲章以て人に示すなり。言ふこころは、民皆此の心有り、敎化明らかならず故に其の性を盡くさず。之を啓迪するは敎の化に在り。鬼神を敬ふと民を敎化するとは、其の本至誠に出でず、而して鬼神は幽にして信、人民は習にして駁なり。故に鬼神に事ふるは致敬に在り、人民を治むるは敎を盡くすに在り。帝既に晨に興き夕に惕れ、齊明盛服して以て鬼神を敬ふ。災害既に耗す。然れども天下未だ軌を一にせず、四方未だ俗を均しくせず。今憲章を建て、以て時月を考へ、禮樂制度を同じくし、以て民性を節し、道德を一にして以て俗を同じくす。十二年に及び敎化流行し、衆庶業を樂しみ、富庶既に滿つ。人民皆長幼の序、課役の制を知る。宜なるかな其の至德を稱せらるること。蓋し後世に迄びて巡察・按察・宣撫の法有り、以て風俗制度を正し革む。推古帝に及び、聖德太子憲法を定め、孝德帝天下の政制を詳にし、天武帝律令法式を定め、文武帝の朝、淡海公勅を奉りて律令を撰び、終に萬世政令の準標と爲る。其の本は皆此に基づく。帝の功、亦大ならずや。〔以上、憲章の敎。〕
-
『中朝事実』神治章・国郡に長を置き封建と郡県を論ず成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、我が先皇大足彦天皇、聡明神武にして、籙を膺け図を受け、天を治め人に順ひ、賊を撥ひ正に反し、徳は覆燾に伴ひ、道は造化に協ふ。是を以て普天率土、王臣ならざる莫く、気を禀け霊を懐くもの、何ぞ処を得ざらん。今、朕嗣ぎて宝祚を践み、夙夜競惕す。然るに黎元蠢爾として野心を悛めず。是れ国郡に君長無く、県邑に首渠無きが故なり。今より以後、国郡に長を立て、県邑に首を置け。即ち当国の幹了なる者を取り、其の国郡の首長に任ぜよ。是れ中区の藩屏と為さん、と。 五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。並びに楯矛を賜ひて以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。 先人曰く、国造は乃ち国司の名なり。後に改めて守と云ふ。聖武天皇天平宝字二年、諸国司に勅して、四箇年を以て任限と為す。宝亀十一年、太宰府に勅して、任限を五箇年と為す、と。 謹んで按ずるに、是れ天下に郡県するの始めなり。帝に至りて始めて封境を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置く。是れ乃ち郡県の制なり。是より歴代因循し、国には守・介・掾・目、及び郡司・大領・少領・主帳等有り。辺要の地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察等有り。任限考課を以て、公文を勘し黜陟す。終に王室に封建の義無し。夫れ封建とは、侯王を天下に封じ、以て王家の藩屏と為し、巡狩述職の礼を行ひ、朝覲会同の儀を為すなり。郡県とは、侯公を邦国に封ぜず、国郡の司を立て、任限を以て交替し、租税を以て公廨を収め、諸子功臣に分賜するなり。竊かに按ずるに、天下を平らげんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。家聚まりて邑県と為り、邑県聚まりて郡と為り、郡聚まりて国と為る。天下は郡の大集なり。故に封建郡県は、天下の治法なり。聖人の天下を治むるや、其の勢を量りて其の制を立て、其の義に随ひて其の礼を詳らかにす。封建も亦之を得、郡県も亦之を得。暗主の天下に於けるや、之に反す。故に封建も亦之を失ひ、郡県も亦之を失ふ。然れども其の法、未だ嘗て可不可無きにあらず。愚謂ふ、封建は、公天下の如くにして天下を私し、王侯を世にするが如くにして王侯を害し、百姓を利するが如くにして百姓を毒し、王室を護るが如くにして王室に敵す。上に政令の正しきあると雖も、下に必ず跋扈の志を存す。是れ悉く其の人を得べからず。一たび之を封ずれば、則ち天子速やかに之を変ずるを得ず、執政直ちに之を規すを得ず。郡県は是に異なり。任限有り、交替有り、黜陟有り、輔佐有り、監察有り。其の任を移し易く、其の過ちを規し易し。上に政教の化無しと雖も、下に尾大不掉の失無し。故に人を撰びて以て任ずるは、是れ公天下なり。王公坐して其の禄を食み、自ら据険の暴無きは、是れ王公を世にするなり。罪を恐れ逞欲せず、志を遷して吏務に励むは、是れ百姓を利するなり。土地辟き人民庶きは、是れ王室を護るなり。二者の可不可、此の如し。而して之を行ふは天下の勢に在り。中国草昧の時、民各々聚結して凌轢す。或いは其の勇悍を恐れ、或いは其の姦計に服し、或いは其の恵施を懐き、以て属して其の党を立つ。自ら封境を定め、相屯すること既に久し。天孫降臨するも、亦民を易へずして治む。故に八十万神を封建す。是れ已むを得ざるの勢なり。其の後、子孫漸く微にして、帝郡県の制を行ふを得たり。是れ乃ち天下の勢なり。凡そ封建一たび行はるれば、則ち郡県を為し難し。当時郡県大いに行はれて、王統連綿、公室絶えざること、並び按ずべし。蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。郡県とは暴秦の定むる所、李斯の奏する所なり。魏の曹元首、晋の陸士衡は是れ封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は是れ郡県を是とす。二説の可否、諸儒一決せず。然れども封建を以て公天下と為し、郡県を以て私天下と為し、且つ暴主定めて二世にして滅ぶを以て凶例と為す。今按ずるに、郡県の如きは秦の暴強に非ざれば、一時の侯王を挫くを得べからず。其の制は古法に非ずと雖も、尤も治道の要を得たり。李斯の奏する所、始皇の行ふ所は、其の実は天下を私するなり。故に其の制明らかならず、其の法正しからず。遂に乱賊の基と為る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らず、なり。〔以上、郡県の制を論ず。〕