玉勝間 / 十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ
又二書ともに、山陰道にカゲトモノミチ、山陽道にソトモノミチと有る說は、ひがことなり。かげともは影面にて、南を云ひ、そともは背面にて北なるを、さる意をも知らぬ人の、陰字によりて、ゆくりなくさかしらに入れ替へたるなるべし。さて又東海道は、ヒウガシノウミノミチ、東山道はヒウガシノヤマノミチなど有るぞ、字にあたりて、正きさまに聞ゆめれど、此たぐひは、中中に後の訓にて、東海道は、ウメツチなど云ひ、東山道は、東の道又山の道と云ひ、北陸道は、クルガ道又キタノ道と云ひ、南海道はミナミノ道、西海道はニシノ道と云へるぞ、返りて正しかるべき。こは互にまぎるる事無きかぎりは、言を省きて、つづまやかに短く定めたるものと聞ゆればなり。書紀の卷卷に見えたる訓も、畿內はウチツクニ、東海道は、ウベツミチ、又ウミツミチとも、東山道は、ヤマノミチ、又アヅマノヤマノミチとも、北陸道は、クヌガノミチ、又クニガノミチ、又クムカノミチ、又クルガノミチとも、山陰道は、ソトモノミチ、山陽道は、カゲトモノミチ、南海道は、ミナミノミチ、西海道は、ニシノミチと有り。さて又郡司のよみ、コホノミヤツコは、郡造にて、國造の例なり。スケノミヤツコは、助造なり。
新字:又二書ともに、山陰道にカゲトモノミチ、山陽道にソトモノミチと有る説は、ひがことなり。かげともは影面にて、南を云ひ、そともは背面にて北なるを、さる意をも知らぬ人の、陰字によりて、ゆくりなくさかしらに入れ替へたるなるべし。さて又東海道は、ヒウガシノウミノミチ、東山道はヒウガシノヤマノミチなど有るぞ、字にあたりて、正きさまに聞ゆめれど、此たぐひは、中中に後の訓にて、東海道は、ウメツチなど云ひ、東山道は、東の道又山の道と云ひ、北陸道は、クルガ道又キタノ道と云ひ、南海道はミナミノ道、西海道はニシノ道と云へるぞ、返りて正しかるべき。こは互にまぎるる事無きかぎりは、言を省きて、つづまやかに短く定めたるものと聞ゆればなり。書紀の巻巻に見えたる訓も、畿内はウチツクニ、東海道は、ウベツミチ、又ウミツミチとも、東山道は、ヤマノミチ、又アヅマノヤマノミチとも、北陸道は、クヌガノミチ、又クニガノミチ、又クムカノミチ、又クルガノミチとも、山陰道は、ソトモノミチ、山陽道は、カゲトモノミチ、南海道は、ミナミノミチ、西海道は、ニシノミチと有り。さて又郡司のよみ、コホノミヤツコは、郡造にて、国造の例なり。スケノミヤツコは、助造なり。
書き下し
また二書ともに、山陰道にカゲトモノミチ、山陽道にソトモノミチと有る説は、ひがことなり。かげともは影面にて、南を云い、そともは背面にて北なるを、さる意をも知らぬ人の、陰の字によりて、ゆくりなくさかしらに入れ替えたるなるべし。さてまた東海道は、ヒウガシノウミノミチ、東山道はヒウガシノヤマノミチなど有るぞ、字にあたりて、正しきさまに聞ゆめれど、このたぐいは、なかなかに後の訓にて、東海道は、ウメツミチなど云い、東山道は、東の道また山の道と云い、北陸道は、クルガ道またキタノ道と云い、南海道はミナミノ道、西海道はニシノ道と云えるぞ、かえりて正しかるべき。こは互にまぎるる事無きかぎりは、言を省きて、つづまやかに短く定めたるものと聞ゆればなり。書紀の巻々に見えたる訓も、畿内はウチツクニ、東海道は、ウベツミチ、またウミツミチとも、東山道は、ヤマノミチ、またアヅマノヤマノミチとも、北陸道は、クヌガノミチ、またクニガノミチ、またクムカノミチ、またクルガノミチとも、山陰道は、ソトモノミチ、山陽道は、カゲトモノミチ、南海道は、ミナミノミチ、西海道は、ニシノミチと有り。さてまた郡司のよみ、コホノミヤツコは、郡造にて、国造の例なり。スケノミヤツコは、助造なり。
現代語訳
また二つの書とも、山陰道に「カゲトモノミチ」、山陽道に「ソトモノミチ」とある説は誤りである。「かげとも」は「影面」で南を言い、「そとも」は「背面」で北であるのを、そういう意味も知らない人が「陰」の字に引かれて、軽率に利口ぶって入れ替えたのであろう。さてまた東海道は「ヒウガシノウミノミチ」、東山道は「ヒウガシノヤマノミチ」などとあるのが、字に当たっていて正しいように聞こえるけれども、この類いはかえって後の訓であって、東海道は「ウメツミチ」などと言い、東山道は「東の道」また「山の道」と言い、北陸道は「クルガ道」また「キタノ道」と言い、南海道は「ミナミノ道」、西海道は「ニシノ道」と言ったのが、かえって正しいであろう。これは、互いに紛れることが無い限りは、言葉を省いて簡潔に短く定めたものと思われるからである。日本書紀の各巻に見える訓も、畿内は「ウチツクニ」、東海道は「ウベツミチ」また「ウミツミチ」とも、東山道は「ヤマノミチ」また「アヅマノヤマノミチ」とも、北陸道は「クヌガノミチ」また「クニガノミチ」また「クムカノミチ」また「クルガノミチ」とも、山陰道は「ソトモノミチ」、山陽道は「カゲトモノミチ」、南海道は「ミナミノミチ」、西海道は「ニシノミチ」とある。さてまた郡司の読みで、「コホノミヤツコ」は「郡造」で、国造(くにのみやつこ)の例にならったものである。「スケノミヤツコ」は「助造」である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ西宮記郡司の読奏の条に、東海道(ウチヘツミチ、ウヘツアチ、またヒウガシノウミノミチ、)東山道(ヒウガシノヤマノミチ、またヒウガシノミチ、またウメツアチ、)北陸道(クルカノアチ、またキタノアチ、ヤマノアチ、)山陰道(止モノアチ、またカゲ止モノアチ、)山陽道(カゲトモノアチ、また曾トモノミチ、)南海道(ミナミノミチ、またミナミノウミノミチ、)西海道(ニシノミチ、またニシノウミノミチ、)大領(古保乃見ヤツ古)少領(爪ケノ見ヤツ古、また爪ケミヤツコ、)と見え、北山抄には、畿内(宇治都久仁)東海道(宇女都美チ、また宇倍都道)東山道(山乃道、また東乃道)北陸道(久流加乃道)山陰道(曾止毛乃道、旧説加介止毛乃道)山陽道(加介止毛乃道、旧説曾止毛乃道)南海道(南乃道)西海道(西乃道)大領(古本乃ミヤツ古、また大古本乃ミヤツ古)少領(須介乃ミヤツ古)領(古本乃ミヤツ古、或る説に大領於本イミヤツ古、領ミヤツ古、今の説尺上是式部例数)国擬(久仁安天申利)擬大少領(加利乃-)自(音読)朝集使(朝集乃使)と見えたり。この二つの書を合わせて考うるに、西宮記の方に、東海道を、ウチベツミチと有る、上のチは、写し誤りにて海辺つ道なるべし、へもじ濁るべし。ウベツアチは、うみべのみを省きたるにて、これも海辺つ道なるべし。アチは、即ち道なり。
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ昔の片仮字には、ミをもアと書けること、書紀の訓などにも多く有りて、まぎらわしきなり。これ必ず差ありけむを、今は見分けがたくなりぬ。ヒウガシは、ひんがしと云うと同じ。こはもとひむかしにて、むは、たしかにむと云い、かも清みたる言なるを、音便にて、むをうとも、んとも云い、それに引かれて、かをも濁るなり。日向を、ひうがと云うも同じ。東山道を、ウメツミチ、北陸道を、ヤマノミチと有るは、後に写すとて、所を誤れるなり。ウメツミチは、東海道の読、ヤマノミチは、東山道の読なり。北山抄正し。さてウメツは、かのウベと同じくて、ベを通わしてメと云えるなり。北陸道を、クルガノミチと有る、クルガは、くぬがを唱え誤れるなるべし。くぬがは、今の世にも陸と云う、これなり。山陰道を止モノミチと有るは、止の上に、曾の字有りしが脱けたるなり。そもそも西宮記、おのが見たるかれこれの本どもは、みな上の件の如くなるを、写し誤りとおぼしき所どころは、善本今も有るべきなり。北山抄のかたは、すべて正しく見ゆ。その中に、北陸道に、キタノミチと云う読〓無きは、落ちたるにや。南海道西海道の例によるに、これも北の道とも云うべきなり。
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ然ればコホノミヤツコとは、郡司をいずれも云うべく、大領は、オホイコホノミヤツコと有るぞ、あたりて聞えたる。書紀の訓、大領は、コホリノミヤツコとも、オホミヤツコとも、コホノミヤツコとも有り。おおみやつこは、いかがなる訓なり。少領はスケノミヤツコ。
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『玉勝間』一の巻 官名の事中昔の書どもには、おおきおおいもうちぎみ、またはおおきおとどなど云えるは、右の訓あまり長き故に、政の字をのぞきたる訓なり。また左右大臣は、於保伊万智岐美と有るも、官名につきてもうけられたる訓なり。ただし万豆岐美、万宇智岐美は、古の称にて、麻都岐美なるを、音便に然か云うなり。まえつぎみと云う事、書紀の景行の巻の歌に見えたり。さて和名抄には、右のごとく万宇智岐美と有るを、北山抄・江次第などに、末布知君・万不地起牟多地など書かれたるは、布不は仮字たがいたり。すべて音便に宇と唱うるは、みな宇の仮字なりと心得べし。大納言・中納言・参議・少納言、みな漢字を以てつけられたる官にて訓は字につきてもうけたるなり。弁は於保止毛比、これは上つ代よりの官名と聞こえたり。意はいかなるにか、いまだ考え得ず字もいかなる意をもてあてられたるにか、さだかならず。西宮記・北山抄・小右記などに、大輌火之官と書かれたるは借り字なり。外記・内記・大史・少史・史生・官掌など、皆漢ざまなり。もろもろのつかさの長官を、美加と云うは古なり。次官を須気と云うも古きか、判官を万豆利古止比止と云うは、もうけたる訓なり。佐官は訓見えず。
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『玉勝間』十の巻 出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文また出雲の郡に薗長三里云々、此れ則ち出雲と神門と二郡の堺なりと有るは、薗の長浜長さと有りけむが、長の字よりまがいて、長浜の二字の脱けたるにて、かの薗の松山と同所なるを、山は神門の郡に属き、浜は、出雲の郡に属けるにぞあらむ。北門とは、出雲の国の北面の海を云うなるべし。佐伎之国は、佐の字は、於の誤にて、隠岐の国にやあらむ、出雲より北の方にあたればなり。されどこはなお疑わし。そのよしは下に云うべし。所取与の与の字は、而の誤なり、上下なる例もて知るべし。自多久乃は、島根の郡に、多久の社また多久川あり。秋鹿の郡との堺なり。乃の字は、川の誤か、されど上の自去豆と有る下にも、この字有りて、去豆には川は見えざれば、ここも如何が有らむ。打絶与は、(打の字一本に折と有るは誤なるべし)与の字は、これも而の誤なり。狭田之国は、秋鹿の郡に、佐太川また佐太の水海など見ゆ、これなり。但しここは、秋鹿楯縫二郡の地を云えるなり。北門良波之国は、いまだ考え得ず。そもそも良理流礼呂を、言の頭に置ける例は無き事なれば、良の字は誤なるか。
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『玉勝間』八の巻 中国山陰道山陽道の国々を中国と云うこと、元慶二年二月三日の官符に、伏して物情を尋ぬるに、陸奥出羽の遠国に在るすら、尚五年を限る、因幡出雲の中国に居る、何ぞ六年を得ん、とあり。類聚三代格にのれり。
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