玉勝間 / 八の巻 しりくらへくわんおん
俗のことばに、しりくらへ觀音と云ふこと有、。日本紀の欽明天皇の御卷に、調〓吉師伊企儺と云へる人の、新羅王陷我脫誰、と云ひたりしこと見えたり。
新字:俗のことばに、しりくらへ観音と云ふこと有、。日本紀の欽明天皇の御巻に、調〓吉師伊企儺と云へる人の、新羅王陥我脱誰、と云ひたりしこと見えたり。
書き下し
俗のことばに、しりくらえ観音と云うこと有り。日本紀の欽明天皇の御巻に、調〓吉師伊企儺と云える人の、新羅の王、我が臗脽を啗え、と云いたりしこと見えたり。
現代語訳
俗語に「尻くらえ観音」ということがある。日本書紀の欽明天皇の巻に、調吉士伊企儺という人が「新羅の王よ、わが尻を食らえ」と言ったことが見える。
解説
相手を罵る俗語「尻くらえ」の古い例を、日本書紀から示した段である。欽明天皇の時代、新羅との戦いで捕らえられた調吉士伊企儺は、新羅の将から、日本の方を向いて「日本の将、わが尻を食らえ」と叫ぶよう強いられたが、あくまで「新羅の王、わが尻を食らえ」と叫び続けて殺された。日本書紀はこれを勇烈の士として称えており、その妻の大葉子が詠んだという歌も伝えている。宣長は、江戸の卑俗な悪口とされる「尻くらえ」が、屈せずに最期を遂げた古代の人の叫びにまで遡ることを示す。俗語の「しりくらえ観音」は、この「尻くらえ」に観音の名を添えた俗な言い回しである。卑しい言葉と見えるものの源に、悲壮な歴史の一場面がある。言葉の品位は、その成り立ちを知ると違って見えてくることを教える段である。
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