玉勝間 / 八の巻 真桑瓜 信長
御湯殿のうへの日記に、天正三年六月廿九日のぶながより、美濃のまくはと申す名所のうりとて、二こしん上、と有り。眞桑村は、本巢郡なり。
新字:御湯殿のうへの日記に、天正三年六月廿九日のぶながより、美濃のまくはと申す名所のうりとて、二こしん上、と有り。真桑村は、本巣郡なり。
書き下し
御湯殿のうえの日記に、天正三年六月二十九日のぶながより、美濃のまくわと申す名所のうりとて、二こしん上、と有り。真桑村は、本巣郡なり。
現代語訳
御湯殿上日記に「天正三年六月二十九日、信長から、美濃の真桑という名所の瓜だといって、二籠を献上」とある。真桑村は本巣郡である。
解説
真桑瓜の名の由来となった美濃国真桑村の瓜が、織田信長から朝廷に献上されていたことを記した段である。御湯殿上日記は、宮中に仕える女房たちが代々書き継いだ仮名の日記で、朝廷への献上品や日々の出来事が細かく記されている。天正三年は長篠の戦いの年で、天下統一を進める信長が、領国の美濃の名産を朝廷に献じていたのである。真桑瓜は江戸時代には庶民にも広く食べられた夏の果物で、宣長はその名が美濃の村の名から来ていること、そしてその村が本巣郡にあることを添えている。題に「信長」と掲げたのは、戦国の覇者と身近な瓜との取り合わせに興を覚えたからであろう。産地の名がそのまま品物の名になるのは、前に見た「飛騨の匠」と同じ筋である。天下人の贈り物が、今も食卓に通じる果物の名の由来を伝えているのは面白い。
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