名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 功名への戒めと越前統治
○二年七月、信長、長島の一揆を伐し時、蒲生氏鄕、大剛の者を組打にして首取て實檢に入る。信長冷笑て褒詞なし。暫くして曰く、凡そ勝負は時の運に寄ることなれば、兼ねて計らざる所なり。功名は武士の本意と云ながら、品に寄るべし。今汝が功名は輕卒の擧動なり。一方の將たらん者は、更に好むべからず、身の危を顧みざるは、左のみ功と言べからず、向後此心を忘るなと戒められけり。 ○信長旣に加賀越前を平げ其の八郡を柴田勝家に賜はり、北庄、足羽に城を築き、之に居らしむ。信長自ら之を經畫せり。且つ勝家に謂て曰く、越前は北陸の要扼にして上杉氏の術に當れり、依つて吾諸將中より選び、汝に命ず。汝其之を勉めよ、夫國を守るの道は徒に勇武を恃むべからず、恩威並び施して以て、民心を服すべしと。乃ち條制を與へて曰く、賦斂を厚くすること勿れ、關市を征すること勿れ、士民を侮ること勿れ、訟獄を偏にすること勿れ、武備を遺すること勿れ、游田を好むこと勿れ、公家の邑、亂賊の掠むる所となるものは、當に印券に據り還付すべし。國內の閑地我倉廩に歸するものは功勞の士を待ち、徒に費すべからず。凡そ我が令する所、便ならざるものあらば、輒ち來り之を爭へ、我將に改めんとすと。依て、不破、佐々、前田等に命じ勝家と相檢察し、以て國政を爲さしめたり。
新字:○二年七月、信長、長島の一揆を伐し時、蒲生氏郷、大剛の者を組打にして首取て実検に入る。信長冷笑て褒詞なし。暫くして曰く、凡そ勝負は時の運に寄ることなれば、兼ねて計らざる所なり。功名は武士の本意と云ながら、品に寄るべし。今汝が功名は軽卒の挙動なり。一方の将たらん者は、更に好むべからず、身の危を顧みざるは、左のみ功と言べからず、向後此心を忘るなと戒められけり。 ○信長既に加賀越前を平げ其の八郡を柴田勝家に賜はり、北庄、足羽に城を築き、之に居らしむ。信長自ら之を経画せり。且つ勝家に謂て曰く、越前は北陸の要扼にして上杉氏の術に当れり、依つて吾諸将中より選び、汝に命ず。汝其之を勉めよ、夫国を守るの道は徒に勇武を恃むべからず、恩威並び施して以て、民心を服すべしと。乃ち条制を与へて曰く、賦斂を厚くすること勿れ、関市を征すること勿れ、士民を侮ること勿れ、訟獄を偏にすること勿れ、武備を遺すること勿れ、游田を好むこと勿れ、公家の邑、乱賊の掠むる所となるものは、当に印券に拠り還付すべし。国内の閑地我倉廩に帰するものは功労の士を待ち、徒に費すべからず。凡そ我が令する所、便ならざるものあらば、輒ち来り之を争へ、我将に改めんとすと。依て、不破、佐々、前田等に命じ勝家と相検察し、以て国政を為さしめたり。
書き下し
○二年七月、信長、長島の一揆を伐し時、蒲生氏鄕、大剛の者を組打にして首取て實檢に入る。信長冷笑て褒詞なし。暫くして曰く、凡そ勝負は時の運に寄ることなれば、兼ねて計らざる所なり。功名は武士の本意と云ながら、品に寄るべし。今汝が功名は輕卒の擧動なり。一方の將たらん者は、更に好むべからず、身の危を顧みざるは、左のみ功と言べからず、向後此心を忘るなと戒められけり。 ○信長旣に加賀越前を平げ其の八郡を柴田勝家に賜はり、北庄、足羽に城を築き、之に居らしむ。信長自ら之を經畫せり。且つ勝家に謂て曰く、越前は北陸の要扼にして上杉氏の術に當れり、依つて吾諸將中より選び、汝に命ず。汝其之を勉めよ、夫國を守るの道は徒に勇武を恃むべからず、恩威並び施して以て、民心を服すべしと。乃ち條制を與へて曰く、賦斂を厚くすること勿れ、關市を征すること勿れ、士民を侮ること勿れ、訟獄を偏にすること勿れ、武備を遺すること勿れ、游田を好むこと勿れ、公家の邑、亂賊の掠むる所となるものは、當に印券に據り還付すべし。國內の閑地我倉廩に歸するものは功勞の士を待ち、徒に費すべからず。凡そ我が令する所、便ならざるものあらば、輒ち來り之を爭へ、我將に改めんとすと。依て、不破、佐々、前田等に命じ勝家と相檢察し、以て國政を爲さしめたり。
現代語訳
二年七月、信長が長島の一揆を討ったとき、蒲生氏郷は大剛の者を組み打ちして首を取り、実検に入れた。信長は冷笑して褒める言葉がなかった。しばらくして言った。「およそ勝負は時の運によることなので、あらかじめ計れるところではない。功名は武士の本意とはいいながら、場合による。今お前の功名は軽卒の振る舞いである。一方の将たろうとする者は、決して好んではならない。身の危うきを顧みないのは、さほど功とは言えない。今後この心を忘れるな」と戒められた。 信長はすでに加賀・越前を平らげ、その八郡を柴田勝家に賜り、北庄、足羽に城を築き、これに居らせた。信長は自らこれを計画した。かつ勝家に言った。「越前は北陸の要衝で、上杉氏に当たっている。それで私は諸将の中から選び、お前に命ずる。お前はよく励め。そもそも国を守る道は、いたずらに勇武を恃んではならない。恩と威を並べ施して、民心を服させよ」と。そこで条制を与えて言った。「賦斂を重くしてはならない、関所や市に課税してはならない、士民を侮ってはならない、訴訟を偏らせてはならない、武備を怠ってはならない、遊猟を好んではならない。公家の領地で乱賊に奪われたものは、印券に拠って返還せよ。国内の空き地で私の倉に帰したものは、功労の士を待って与え、むやみに費やしてはならない。およそ私が命ずることで、不便なものがあれば、すぐ来てこれを争え。私はこれを改めよう」と。そこで不破、佐々、前田らに命じ、勝家とともに検察し、国政を行わせた。
解説

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