名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 献策への厚賞と上京の胆力
○此役、林通勝、柴田勝家、池田信輝等の諸將、衆寡の敵せざるを以て皆諫む。獨簗田出羽守政綱、信長の計を贊成し、敵兩城を拔き、未だ其陣を更へず、中軍必ず後に在らん、兵を潛めて以て之を襲ひ給はゞ、義元を獲給ふべしと言ふ。之に依り勝利を得たり。依て其場にて沓掛村三千貫の地を賜はる。又毛利秀高は義元の首を取りしかども褒美、政綱よりは輕かりけり。 ○信長、數年思ひ立て、上下八十餘人にて密に上京す。美濃は敵地なれば、熱田より船に乘り、伊勢の桑名より上り、夫より忍びて奈良堺を始め、幾內の地形、風俗まで一見し、夫より上京し、將軍義輝に謁す。此事齋藤義龍聞て倔強の士五六人を遣はし、信長を狙撃せしむ。信長早くも此事を知り、金森五郎八長近を使として、討手の者共が蛸藥師の旅宿に遣はす。長近則ち右の討手の者に對面して、貴方達上京の義信長疾くに存ぜられたる間、某を越され候、則ち各も信長へ御禮申され然るべく候と言ければ、五人の者共殊の外驚愕せり。其翌日五人の者小川表へ上りけるに、信長も立賣の町を見物ありて、小川へ出る所にて、五人の者にはたと行逢ふ。信長直に汝等は美濃の國より遙々と上京して、信長を討んと狙ふ由聞き及ぶ所なり、誠に蟷螂が斧を以て龍車に向ふとは、是なるべし。去りながら各優しき志なり、其義實ならば、今爰にて仕て見よと言はれければ、五人の者共威光に恐れて、中々其儀は思ひも寄らずと、難儀しけり。偖五三日過ぎて、信長、森山まで下り、翌日大雨降りけれど拂曉に立ちて八風峠を越し山傳ひに十七里を一日の內に清洲まで歸着せり。京、田舍押並べて、皆其武勇を稱譽せり。
新字:○此役、林通勝、柴田勝家、池田信輝等の諸将、衆寡の敵せざるを以て皆諫む。独簗田出羽守政綱、信長の計を賛成し、敵両城を抜き、未だ其陣を更へず、中軍必ず後に在らん、兵を潜めて以て之を襲ひ給はゞ、義元を獲給ふべしと言ふ。之に依り勝利を得たり。依て其場にて沓掛村三千貫の地を賜はる。又毛利秀高は義元の首を取りしかども褒美、政綱よりは軽かりけり。 ○信長、数年思ひ立て、上下八十余人にて密に上京す。美濃は敵地なれば、熱田より船に乗り、伊勢の桑名より上り、夫より忍びて奈良堺を始め、幾内の地形、風俗まで一見し、夫より上京し、将軍義輝に謁す。此事斎藤義竜聞て倔強の士五六人を遣はし、信長を狙撃せしむ。信長早くも此事を知り、金森五郎八長近を使として、討手の者共が蛸薬師の旅宿に遣はす。長近則ち右の討手の者に対面して、貴方達上京の義信長疾くに存ぜられたる間、某を越され候、則ち各も信長へ御礼申され然るべく候と言ければ、五人の者共殊の外驚愕せり。其翌日五人の者小川表へ上りけるに、信長も立売の町を見物ありて、小川へ出る所にて、五人の者にはたと行逢ふ。信長直に汝等は美濃の国より遥々と上京して、信長を討んと狙ふ由聞き及ぶ所なり、誠に蟷螂が斧を以て竜車に向ふとは、是なるべし。去りながら各優しき志なり、其義実ならば、今爰にて仕て見よと言はれければ、五人の者共威光に恐れて、中々其儀は思ひも寄らずと、難儀しけり。偖五三日過ぎて、信長、森山まで下り、翌日大雨降りけれど払暁に立ちて八風峠を越し山伝ひに十七里を一日の内に清洲まで帰着せり。京、田舎押並べて、皆其武勇を称誉せり。
書き下し
○此役、林通勝、柴田勝家、池田信輝等の諸將、衆寡の敵せざるを以て皆諫む。獨簗田出羽守政綱、信長の計を贊成し、敵兩城を拔き、未だ其陣を更へず、中軍必ず後に在らん、兵を潛めて以て之を襲ひ給はゞ、義元を獲給ふべしと言ふ。之に依り勝利を得たり。依て其場にて沓掛村三千貫の地を賜はる。又毛利秀高は義元の首を取りしかども褒美、政綱よりは輕かりけり。 ○信長、數年思ひ立て、上下八十餘人にて密に上京す。美濃は敵地なれば、熱田より船に乘り、伊勢の桑名より上り、夫より忍びて奈良堺を始め、幾內の地形、風俗まで一見し、夫より上京し、將軍義輝に謁す。此事齋藤義龍聞て倔強の士五六人を遣はし、信長を狙撃せしむ。信長早くも此事を知り、金森五郎八長近を使として、討手の者共が蛸藥師の旅宿に遣はす。長近則ち右の討手の者に對面して、貴方達上京の義信長疾くに存ぜられたる間、某を越され候、則ち各も信長へ御禮申され然るべく候と言ければ、五人の者共殊の外驚愕せり。其翌日五人の者小川表へ上りけるに、信長も立賣の町を見物ありて、小川へ出る所にて、五人の者にはたと行逢ふ。信長直に汝等は美濃の國より遙々と上京して、信長を討んと狙ふ由聞き及ぶ所なり、誠に蟷螂が斧を以て龍車に向ふとは、是なるべし。去りながら各優しき志なり、其義實ならば、今爰にて仕て見よと言はれければ、五人の者共威光に恐れて、中々其儀は思ひも寄らずと、難儀しけり。偖五三日過ぎて、信長、森山まで下り、翌日大雨降りけれど拂曉に立ちて八風峠を越し山傳ひに十七里を一日の內に清洲まで歸着せり。京、田舍押並べて、皆其武勇を稱譽せり。
現代語訳
この役で、林通勝、柴田勝家、池田信輝らの諸将は、衆寡敵せずとして皆諫めた。ただ簗田出羽守政綱だけが信長の計に賛成し、敵は両城を抜いて、まだその陣を替えておりません、中軍は必ず後ろにあるでしょう、兵を潜めてこれを襲いなされば、義元を獲ることができましょう、と言った。これによって勝利を得た。そこでその場で沓掛村三千貫の地を賜った。また毛利秀高は義元の首を取ったけれども、褒美は政綱よりも軽かった。 信長は、数年来思い立っていたことで、上下八十余人でひそかに上京した。美濃は敵地なので、熱田から船に乗り、伊勢の桑名から上がり、それから忍んで奈良・堺をはじめ、畿内の地形・風俗まで見て、それから上京し、将軍義輝に謁した。このことを斎藤義龍が聞き、屈強の士五、六人を遣わして、信長を狙撃させようとした。信長は早くもこれを知り、金森五郎八長近を使いとして、討っ手の者たちが泊まる蛸薬師の旅宿へ遣わした。長近はその討っ手の者に対面して、あなた方が上京されたことは、信長はとうにご存じでしたので、私を寄越されました、ついては、各々も信長へご挨拶なさるのがよろしいでしょう、と言ったので、五人の者はことのほか驚愕した。その翌日、五人の者が小川表へ上ったところ、信長も立売の町を見物して、小川へ出るところで、五人の者にはたと行き合った。信長はただちに、お前たちは美濃国からはるばる上京して、信長を討とうと狙っていると聞き及んでいる、まことに蟷螂が斧をもって龍車に向かうとは、このことだろう、とはいえ、各々の志は殊勝である、それが本当なら、今ここでやって見よ、と言われたので、五人の者は威光に恐れて、とてもそのようなことは思いもよらぬと、困り果てた。さて数日過ぎて、信長は森山まで下り、翌日は大雨が降ったが、払暁に立って八風峠を越し、山伝いに十七里を一日のうちに清洲まで帰着した。京も田舎も押し並べて、皆その武勇を称賛した。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『晏子春秋』諫下・景公登路寢台不終不說晏子諫景公路寝の台に登り、終うる能わずして、陛に息み、忿然として色を作し、説ばず、曰く、「孰か高台を為りて、人を病ましむること之れ甚だしき」と。晏子曰く、「君身に節して高くする勿からんことを欲せば、人をして之を高くせしめて罪する勿れ。今高ければ之に従うに罪を以てし、卑ければ亦た之に従うに罪を以てす。敢えて問う、人をして此の如くならしむるは可ならんか。古者の宮室を為るや、以て生に便なるに足る、以て奢侈と為さず、故に身に節し、民に謂う。夏の衰うるに及びて、其の王桀徳行に背棄し、璿室玉門を作為す。殷の衰うるや、其の王紂傾宮霊台を作為し、卑狭なる者は罪有り、高大なる者は賞有り、是を以て身に及べり。今君は高きも亦た罪有り、卑きも亦た罪有り、夏殷の王より甚だし。民力殫き乏しけれども、罪を免れず。嬰国の流失して、公の享けざるを得んことを恐る」と。公曰く、「善し、寡人自ら知る、誠に財を費やし民を労し、以て功無しと為し、又た従いて之を怨む、是れ寡人の罪なり。夫子の教えに非ざれば、豈に社稷を守るを得んや」と。遂に下り、再拝し、果たして台に登らず。
-
『韓非子』二柄第七功、其の事に當り、事、其の言に當れば、則ち賞し、功、其の事に當らず、事、其の言に當らざれば、則ち罰す。
-
三略・下略上を犯す者尊く、貪鄙なる者富めば、聖主有りと雖も、其の治を致す能はず。上を犯す者誅せられ、貪鄙なる者拘へらるれば、則ち化行はれて衆悪消ゆ。
-
司馬法・天子之義上(かみ)、徳を尊ばずして詐慝(さとく)に任じ、道を尊ばずして勇力に任じ、命に用うるを貴ばずして命を犯すを貴び、善行を貴ばずして暴行を貴べば、
-
『韓非子』外儲說左上第三十二畫くこと孰か最も難き者ぞ。曰く、犬馬最も難し。...孰か最も易き者ぞ。曰く、鬼魅最も易し。...夫れ犬馬は、人の知る所なり...故に難し。鬼魅は形無き者にして...故に之を易しとするなり。
-
『韓非子』六反第四十六姦偽無益の民六、而るに世之を誉むること彼の如し。耕戦有益の民六、而るに世之を毀ること此くの如し。此れ之を「六反」と謂ふ。