名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 軍紀の厳しさと辞退の作法
○十一年九月、信長、將軍義昭を輔け兵を起し、佐々木義賢入道承禎が、箕作觀晉寺の城を陷れ、諸軍を整へて京師に入る。京師の士民、固より信長の威武を聞き、其暴掠を恐るゝこと鬼神の如く、皆荷擔して走れり。信長の至るに及びて、號令嚴明にして、秋毫も犯さず、菅谷長頼をして街市を巡行せしむ、偶々歩卒賈人と價を爭ふ者あり、卽ち之を執へて樹に縛し、京人群參の諸人に見せしむ。斯りしかば、人皆安堵して信長へ心を屬しけり。 ○信長、旣に近畿を平ぐ。朝廷、信長の功を賞し從四位下に敍し、左兵衞督に任ぜらる。信長曰く、臣天の道を以て强賊に克つことを得たり、然るを如何ぞ臣が功と成して、以て顯爵を辱せんやとて、辭しければ、則ち從五位下に敍せられ、彈正忠に任ぜらる。義昭私に信長を以て管領と爲し、副將軍の號を賜ふ。信長辭して受けず。義昭、成事を賀し、散樂十三曲を其第に張らんとす。信長諫めて曰く、方今凶賊繩に服し、四方未だ平がず、是れ未だ優遊し給ふの時にあらず、且つ諸軍士歸るを思ふ者多し、宜く式の如くし給ふて止め給ふべしと。義昭則ち省きて五曲と爲す。信長卽日兵を釋き畿內の關塞を撤し、行旅に便にせしかば、遠近悅服せり。義昭、信長の功あり賞なきを病みて書を賜はり、之を褒し、信長を呼びて父と言ふ。幾程もなく信長岐阜に歸れり。
新字:○十一年九月、信長、将軍義昭を輔け兵を起し、佐々木義賢入道承禎が、箕作観晋寺の城を陥れ、諸軍を整へて京師に入る。京師の士民、固より信長の威武を聞き、其暴掠を恐るゝこと鬼神の如く、皆荷担して走れり。信長の至るに及びて、号令厳明にして、秋毫も犯さず、菅谷長頼をして街市を巡行せしむ、偶々歩卒賈人と価を争ふ者あり、即ち之を執へて樹に縛し、京人群参の諸人に見せしむ。斯りしかば、人皆安堵して信長へ心を属しけり。 ○信長、既に近畿を平ぐ。朝廷、信長の功を賞し従四位下に叙し、左兵衛督に任ぜらる。信長曰く、臣天の道を以て強賊に克つことを得たり、然るを如何ぞ臣が功と成して、以て顕爵を辱せんやとて、辞しければ、則ち従五位下に叙せられ、弾正忠に任ぜらる。義昭私に信長を以て管領と為し、副将軍の号を賜ふ。信長辞して受けず。義昭、成事を賀し、散楽十三曲を其第に張らんとす。信長諫めて曰く、方今凶賊縄に服し、四方未だ平がず、是れ未だ優遊し給ふの時にあらず、且つ諸軍士帰るを思ふ者多し、宜く式の如くし給ふて止め給ふべしと。義昭則ち省きて五曲と為す。信長即日兵を釈き畿内の関塞を撤し、行旅に便にせしかば、遠近悦服せり。義昭、信長の功あり賞なきを病みて書を賜はり、之を褒し、信長を呼びて父と言ふ。幾程もなく信長岐阜に帰れり。
書き下し
○十一年九月、信長、將軍義昭を輔け兵を起し、佐々木義賢入道承禎が、箕作觀晉寺の城を陷れ、諸軍を整へて京師に入る。京師の士民、固より信長の威武を聞き、其暴掠を恐るゝこと鬼神の如く、皆荷擔して走れり。信長の至るに及びて、號令嚴明にして、秋毫も犯さず、菅谷長頼をして街市を巡行せしむ、偶々歩卒賈人と價を爭ふ者あり、卽ち之を執へて樹に縛し、京人群參の諸人に見せしむ。斯りしかば、人皆安堵して信長へ心を屬しけり。 ○信長、旣に近畿を平ぐ。朝廷、信長の功を賞し從四位下に敍し、左兵衞督に任ぜらる。信長曰く、臣天の道を以て强賊に克つことを得たり、然るを如何ぞ臣が功と成して、以て顯爵を辱せんやとて、辭しければ、則ち從五位下に敍せられ、彈正忠に任ぜらる。義昭私に信長を以て管領と爲し、副將軍の號を賜ふ。信長辭して受けず。義昭、成事を賀し、散樂十三曲を其第に張らんとす。信長諫めて曰く、方今凶賊繩に服し、四方未だ平がず、是れ未だ優遊し給ふの時にあらず、且つ諸軍士歸るを思ふ者多し、宜く式の如くし給ふて止め給ふべしと。義昭則ち省きて五曲と爲す。信長卽日兵を釋き畿內の關塞を撤し、行旅に便にせしかば、遠近悅服せり。義昭、信長の功あり賞なきを病みて書を賜はり、之を褒し、信長を呼びて父と言ふ。幾程もなく信長岐阜に歸れり。
現代語訳
十一年九月、信長は将軍義昭を助けて兵を起こし、佐々木義賢入道承禎の箕作・観音寺の城を陥れ、諸軍を整えて京師に入った。京師の士民は、もとより信長の武威を聞いており、その乱暴・略奪を鬼神のように恐れ、皆荷を担いで逃げ走った。信長が到着するに及んで、号令は厳明で、少しも犯すことがなく、菅谷長頼に町を巡行させた。たまたま歩卒で商人と値を争う者があり、すぐにこれを捕えて木に縛り、京人や群参の諸人に見せた。こうしたので、人は皆安堵して信長に心を寄せた。 信長はすでに近畿を平らげた。朝廷は信長の功を賞して従四位下に叙し、左兵衛督に任じた。信長は、私は天の道によって強賊に勝つことができたのです、それをどうして私の功とし、顕爵を辱めましょうか、と言って辞退したので、従五位下に叙せられ、弾正忠に任じられた。義昭は私に信長を管領とし、副将軍の号を授けようとした。信長は辞して受けなかった。義昭は成功を祝い、散楽十三曲をその邸で催そうとした。信長は諫めて言った。今、凶賊は縄に服しましたが、四方はまだ平らいでおりません、のんびり遊ぶ時ではありません、かつ諸軍士は帰ることを思う者が多い、式のとおりになさって止めなされるのがよいでしょう、と。義昭はそこで省いて五曲とした。信長は即日兵を解き、畿内の関所・砦を撤去して、旅人の便にしたので、遠近の人は喜び服した。義昭は信長に功があるのに賞がないのを気に病んで書を賜り、これを褒め、信長を呼んで父と言った。まもなく信長は岐阜に帰った。
解説

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名将言行録・『名将言行録』柴田勝家 老いを恐れぬ軍の始末○九月、信長、大阪、野田福島等を攻んとせし所に、淺井、朝倉攻上り、大津、松本、醍醐、山科邊を放火し、近日京都へ亂入の由聞えければ、信長大に驚き、將軍義昭を守護し、二十二日の曉天に中島を引拂ひ、二十三日凱陣せり。義昭は細川藤孝許りを召連れて早々歸京なり、信長は同日大津へ押通し、坂本に向ふ。勝家諫めて曰く、此頃京の取沙汰には、信長こそ攝津にて軍に打負け、討死せし由申しならし、上下騷動すると承はり候、且つ將軍家には、誰ありて敢果〳〵敷御供なし、願くは殿には先づ今日は將軍家を守護せられ、暫く京都へ御人數を納め入られ、御安堵の御姿を京の諸人に見せしめ、其後坂本へ御發向然るべしと。信長勇氣に餘りせき上げ、汝は不調法なることを申すもの哉、戰場に赴く者は、一刻も早く目に見たる敵をば遁さじとこそ向ふものなれば、其れへは先づ向はずして、心安き京中を經廻るべき樣やある。汝は老耄したるかと言捨て通られけり。勝家も流石鳴呼の者にて、追掛け參り、信長の馬前に至り、父土佐守より某まで二代の內、戰場に向ひて、終に老耄したる不調法は仕らず、但し四疊半敷の數奇屋に入りて、茶杯を飲み候にこそ、不調法なることもあるべく候へ、と申捨てぞ歸りける。流石信長も、返答に差支へ詞なく打通られける。勝家は夫より取て返し申す樣、若き殿の早らせ給ふに、我等が樣なる年寄の同じ樣に飛廻らば、夫こそ誠の耄者なるべし、軍は始末が大事ぞかしとて、手勢を引具し、義昭を供して京都へ歸り、九條より一條まで、勝家自身高聲に觸れけるは、信長公は御機嫌能く、攝津より御凱陣にて、淺井、朝倉御退治の爲め、直ぐに坂本に御發向なり、皆々心安く存ずべしと聞かせたり。是にて諸人安堵し、騷動も止みにけり。
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名将言行録・『名将言行録』織田信長 功名への戒めと越前統治○二年七月、信長、長島の一揆を伐し時、蒲生氏鄕、大剛の者を組打にして首取て實檢に入る。信長冷笑て褒詞なし。暫くして曰く、凡そ勝負は時の運に寄ることなれば、兼ねて計らざる所なり。功名は武士の本意と云ながら、品に寄るべし。今汝が功名は輕卒の擧動なり。一方の將たらん者は、更に好むべからず、身の危を顧みざるは、左のみ功と言べからず、向後此心を忘るなと戒められけり。 ○信長旣に加賀越前を平げ其の八郡を柴田勝家に賜はり、北庄、足羽に城を築き、之に居らしむ。信長自ら之を經畫せり。且つ勝家に謂て曰く、越前は北陸の要扼にして上杉氏の術に當れり、依つて吾諸將中より選び、汝に命ず。汝其之を勉めよ、夫國を守るの道は徒に勇武を恃むべからず、恩威並び施して以て、民心を服すべしと。乃ち條制を與へて曰く、賦斂を厚くすること勿れ、關市を征すること勿れ、士民を侮ること勿れ、訟獄を偏にすること勿れ、武備を遺すること勿れ、游田を好むこと勿れ、公家の邑、亂賊の掠むる所となるものは、當に印券に據り還付すべし。國內の閑地我倉廩に歸するものは功勞の士を待ち、徒に費すべからず。凡そ我が令する所、便ならざるものあらば、輒ち來り之を爭へ、我將に改めんとすと。依て、不破、佐々、前田等に命じ勝家と相檢察し、以て國政を爲さしめたり。