名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 幼い日の気前と胆力
備後守信秀の子、彈正忠に任じ、累遷して右大臣と爲る。近畿二十四國を平げ、安土城に住す。天正十年六月二日、明智光秀に弑せらる。年四十九、從一位太政大臣を贈らる。 ○信長、幼名吉法師と云ふ。清洲の寺へ手習に行きけるに、相弟子の童子四五十人もありける。毎年五月五日には、童子東西に立分れ、石礫を以て打合ひ、勝負を爭ふ、之を印陳打と云ふ。信長深く此遊を好み、五月五日には、何つも母より筆墨紙の類に、飯米三斗、永錢一貫文づつ副へて越しけるを、信長、此品々を童子へ與へて、印陳打さするに、永錢を與へたる者は働き拔群なり、偖亦其功名に依て褒美として、恩賞に彼永錢、并に品々を與へ、終に一錢をも貯へず、皆分ち與へけり。心ある者は、此兒行々は名將とも成らん、と言て舌を卷きて感じけるとぞ。 ○信長幼き時、庭に出で遊び居たる所に、小蛇出ければ、信長握み近臣の者に向ひ、斯の如きを勇と爲すかと問ふ。近臣小蛇抔は懼るゝに足らざることゝなりと申す。信長蛇の毒は形の大小にあらず、蛇小なりとて惺れずんば、若し主君幼年ならば、汝等之を侮るかと言はれければ、近臣大に赤面せしとぞ。
新字:備後守信秀の子、弾正忠に任じ、累遷して右大臣と為る。近畿二十四国を平げ、安土城に住す。天正十年六月二日、明智光秀に弑せらる。年四十九、従一位太政大臣を贈らる。 ○信長、幼名吉法師と云ふ。清洲の寺へ手習に行きけるに、相弟子の童子四五十人もありける。毎年五月五日には、童子東西に立分れ、石礫を以て打合ひ、勝負を争ふ、之を印陳打と云ふ。信長深く此遊を好み、五月五日には、何つも母より筆墨紙の類に、飯米三斗、永銭一貫文づつ副へて越しけるを、信長、此品々を童子へ与へて、印陳打さするに、永銭を与へたる者は働き抜群なり、偖亦其功名に依て褒美として、恩賞に彼永銭、并に品々を与へ、終に一銭をも貯へず、皆分ち与へけり。心ある者は、此児行々は名将とも成らん、と言て舌を巻きて感じけるとぞ。 ○信長幼き時、庭に出で遊び居たる所に、小蛇出ければ、信長握み近臣の者に向ひ、斯の如きを勇と為すかと問ふ。近臣小蛇抔は懼るゝに足らざることゝなりと申す。信長蛇の毒は形の大小にあらず、蛇小なりとて惺れずんば、若し主君幼年ならば、汝等之を侮るかと言はれければ、近臣大に赤面せしとぞ。
書き下し
備後守信秀の子、彈正忠に任じ、累遷して右大臣と爲る。近畿二十四國を平げ、安土城に住す。天正十年六月二日、明智光秀に弑せらる。年四十九、從一位太政大臣を贈らる。 ○信長、幼名吉法師と云ふ。清洲の寺へ手習に行きけるに、相弟子の童子四五十人もありける。毎年五月五日には、童子東西に立分れ、石礫を以て打合ひ、勝負を爭ふ、之を印陳打と云ふ。信長深く此遊を好み、五月五日には、何つも母より筆墨紙の類に、飯米三斗、永錢一貫文づつ副へて越しけるを、信長、此品々を童子へ與へて、印陳打さするに、永錢を與へたる者は働き拔群なり、偖亦其功名に依て褒美として、恩賞に彼永錢、并に品々を與へ、終に一錢をも貯へず、皆分ち與へけり。心ある者は、此兒行々は名將とも成らん、と言て舌を卷きて感じけるとぞ。 ○信長幼き時、庭に出で遊び居たる所に、小蛇出ければ、信長握み近臣の者に向ひ、斯の如きを勇と爲すかと問ふ。近臣小蛇抔は懼るゝに足らざることゝなりと申す。信長蛇の毒は形の大小にあらず、蛇小なりとて惺れずんば、若し主君幼年ならば、汝等之を侮るかと言はれければ、近臣大に赤面せしとぞ。
現代語訳
備後守信秀の子、弾正忠に任じ、累進して右大臣となる。近畿二十四国を平らげ、安土城に住んだ。天正十年六月二日、明智光秀に弑せられた。年四十九、従一位太政大臣を贈られた。 信長は幼名を吉法師という。清洲の寺へ手習いに行ったところ、相弟子の子供が四、五十人いた。毎年五月五日には、子供たちが東西に分かれ、石礫で打ち合って勝負を争った。これを印陳打という。信長はこの遊びを深く好み、五月五日には、いつも母から筆墨紙の類に、飯米三斗、永銭一貫文ずつを添えて寄越してくれたのを、信長はこの品々を子供たちに与えて印陳打をさせ、永銭を与えた者は働きが抜群で、またその功名に応じて、褒美として、恩賞にその永銭と品々を与え、ついに一銭も貯えず、皆分け与えた。心ある者は、この子はゆくゆくは名将ともなるだろうと言って、舌を巻いて感心したという。 信長が幼いとき、庭に出て遊んでいたところ、小蛇が出てきたので、信長は握んで近臣に向かい、このようなものを勇というのかと問うた。近臣は、小蛇などは恐れるに足らぬことです、と申した。信長は、蛇の毒は形の大小にはない、蛇が小さいからといって恐れないなら、もし主君が幼年ならば、お前たちはこれを侮るのか、と言われたので、近臣は大いに赤面したという。
解説

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