玉勝間 / 八の巻 上東門院
左經記、萬壽三年正月十九日、大皇大后御祝髮の事を記せるところに、以御在所上東門院爲院号と有り。斯かれば上東門院と云ふは、もとより御在所の名なりけり。
新字:左経記、万寿三年正月十九日、大皇大后御祝髪の事を記せるところに、以御在所上東門院為院号と有り。斯かれば上東門院と云ふは、もとより御在所の名なりけり。
書き下し
左経記、万寿三年正月十九日、大皇大后御祝髪の事を記せるところに、御在所上東門院を以て院号と為す、と有り。斯かれば上東門院と云うは、もとより御在所の名なりけり。
現代語訳
左経記の万寿三年正月十九日、太皇太后(藤原彰子)が御出家なさったことを記したところに「御在所の上東門院を院号とする」とある。そうであれば、上東門院というのは、もともと御在所の名であったのだ。
解説
女院の院号「上東門院」の由来を、同時代の日記から確かめた段である。上東門院は藤原道長の娘彰子で、一条天皇の中宮となり、後一条・後朱雀の二天皇の母となった人である。紫式部や和泉式部が仕えたことでも知られる。万寿三年に出家した彰子は、門の名を冠した院号を初めて受けた女院となった。左経記によれば、その院号は彰子が住んでいた邸の名「上東門院」をそのまま用いたものであった。上東門は平安京の大内裏の東側の門で、その近くの邸が門の名で呼ばれていたのである。宣長は、後世には人の呼び名として定着した院号が、もとは住まいの名であったことを一行の記録で示す。場所の名が人の名になるのは、前に見た「局」と同じ筋道である。天皇を「内裏」や「御門(みかど)」と呼ぶのも、住まいで人を指す古い習いにつながっている。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 門院と申す御号の事同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『玉勝間』十四の巻 南殿続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇群臣を南殿に宴す。また同じく二十年春正月戊寅、天皇南殿に御して、五位以上を宴すとある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名づけられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢ようの名は、奈良の宮までは見えたる事無し。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿など云う名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢ようの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
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