玉勝間 / 二の巻 長保元年女御入内料屏風歌事
同記云、長德五年十月廿八日、彼此云、昨於左府撰定和歌、是入內女御料屏風歌、花山院法皇、右衞門督公任、左兵衞督高遠、宰相中將齊信、源宰相俊賢、皆有和歌、上達部依左府命、獻和歌、往古不聞事也、何况於法皇御製哉、又有主人和歌云云、今夕有被催和歌之御消息、令申不堪由、定有不快之色歟、此事不甘心事也、云云同卅日云云、右大辨行成書屏風色紙形、華山法皇主人相府右大將右衞門督宰相中將源宰相和歌、書色紙形、皆書名、後代已失面目、但法皇御製不知讀人、左府歌書左大臣、件事奇怪事也とあり。左府は御堂ノ關白道長公にて、御女上東門院の入內のをりの事なり。
新字:同記云、長徳五年十月廿八日、彼此云、昨於左府撰定和歌、是入内女御料屏風歌、花山院法皇、右衛門督公任、左兵衛督高遠、宰相中将斉信、源宰相俊賢、皆有和歌、上達部依左府命、献和歌、往古不聞事也、何況於法皇御製哉、又有主人和歌云云、今夕有被催和歌之御消息、令申不堪由、定有不快之色歟、此事不甘心事也、云云同卅日云云、右大弁行成書屏風色紙形、華山法皇主人相府右大将右衛門督宰相中将源宰相和歌、書色紙形、皆書名、後代已失面目、但法皇御製不知読人、左府歌書左大臣、件事奇怪事也とあり。左府は御堂ノ関白道長公にて、御女上東門院の入内のをりの事なり。
書き下し
同記に云う、長徳五年十月廿八日、彼此云う、昨左府に於て和歌を撰定す、是れ入内の女御の料の屏風歌なり、花山院法皇、右衛門督公任、左兵衛督高遠、宰相中将斉信、源宰相俊賢、皆和歌有り、上達部左府の命に依りて、和歌を献ず、往古聞かざる事なり、何ぞ況んや法皇の御製に於てをや、また主人の和歌有り云云、今夕和歌を催さるるの御消息有り、不堪の由を申さしむ、定めて不快の色有らんか、此の事甘心せざる事なり、云云同じく卅日云云、右大弁行成屏風の色紙形を書く、華山法皇・主人相府・右大将・右衛門督・宰相中将・源宰相の和歌、色紙形に書く、皆名を書く、後代已に面目を失う、但し法皇の御製は読人を知らず、左府の歌は左大臣と書く、件の事奇怪の事なり、とあり。左府は御堂の関白道長公にて、御女上東門院の入内のおりの事なり。
現代語訳
同じ日記にこうある。「長徳五年(999)十月二十八日、人々が言うには、昨日、左大臣の邸で和歌を選び定めた。これは入内する女御のための屏風の歌である。花山院法皇、右衛門督公任、左兵衛督高遠、宰相中将斉信、源宰相俊賢が、みな和歌を詠んだ。上達部が左大臣の命によって和歌を献ずるなど、昔から聞いたこともない。まして法皇の御製までとは。また主人(道長)の歌もあるという。今夕、私にも和歌を詠めとの催促の手紙があったが、その任に堪えないと申し上げさせた。きっと不快な顔をしているだろう。この事は感心しない。三十日、右大弁行成が屏風の色紙形を書いた。花山法皇・主人の左大臣・右大将・右衛門督・宰相中将・源宰相の和歌を色紙形に書き、みな名を書いた。後の世まで面目を失ったことだ。ただし法皇の御製は詠み人を記さず、左大臣の歌は左大臣と書いた。この事は奇怪である」とある。左府とは御堂関白藤原道長公で、その娘の上東門院(彰子)が入内した折のことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 寛仁二年十月立后節会の夜太閤御歌の事同記に、寛仁二年十月十六日乙巳、今日女御藤原威子を以て、皇后に立つ云云、太閤下官を招き呼びて云う、和歌を読まんと欲す、必ず和すべし者(てえり)、答えて云う、何ぞ和し奉らざらんや、また云う、誇りたる歌になむ有る、但し宿構に非ず者(てえり)、此の世をば、我が世とぞ思う、望月の、虧けたる事も、無しと思えば、余申して云う、御歌優美なり、酬答に方無し、満座只此の御歌を誦すべし、元稹の菊の詩、居易和せず、深く賞歎して終日吟詠す、諸卿余が言に響応して、数度吟詠す、太閤和解して、殊に和を責めず、とあり。この記、またの名は野府記とも、続水心記ともいう。水心というよしは、御祖父大臣の諡の、清慎の二字の偏をとりたるなり。
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『玉勝間』八の巻 上東門院左経記、万寿三年正月十九日、大皇大后御祝髪の事を記せるところに、御在所上東門院を以て院号と為す、と有り。斯かれば上東門院と云うは、もとより御在所の名なりけり。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第花山院・さいおんじ殿候わせ給う。かんぎょのぎしきぐせらるるほど、大しょうじのひんがしひらしきにてぞ、くごまいる。御ばいぜんは、女房もとのごとし。また大しょうじの西に、からえの御びょうぶを立てられたり。その西にて、両大納言殿御わりごひらき給うにや、そのやくそうには、五位のしきじよりふじあきよなど見え侍りつ。御ぜんはてぬれば、かんぎょなる。公卿のれち、御こしよりて召されぬれば、ずさどもよせて、またかえりまいりぬ。出車には、一のくるまに、左衛門督殿、新左衛門督殿、ははき、さぬき、二のくるまに、宮内、龍さ、ひぜん、たまき、三のくるまに、新兵衛、じぶ、みあれ、いつぬき、四のくるま、少将、少輔、宮人、いつぬき、としるせり。中務の内侍は、宮内卿永経卿のむすめなり。右の日記の文のうち、心得ぬ事まじれり、うつし誤りとおぼしきも、所々見ゆ。みな本のままに書きつ。
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『玉勝間』二の巻 円融太上天皇紫野御子日の事この間蹴鞠の事有り、左大将・左衛門督・源中納言・両三位・藤宰相・余及び殿上の侍臣等蹴鞠の事あり、黄昏に及びて仰せて曰く、和歌に至りては、院に於て序を献じ和歌等を置くべし、各者(てえり)、燭を秉りて本院に還り〓御す、公卿を御前に召して歌遊びの事有り、余を召して和歌の講師と為す、右大臣以下和歌を献ず、左大臣は献ぜず、如何如何、左右両丞相に御衣を賜う、納言以下に白掛を賜い、侍臣に疋絹、また御随身に給う、深更に各各分散す、紫野に御する間、内より使右近少将信輔御訪い有り、即ち御簾の外に召し、円座を給いて御消息を申す、余禄を執りて之を被く、拝舞の間、失礼太だ多し、今日四位五位六位皆綾羅を着す、如何、下官は白襖・薄色の狩袴を着するなり。
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊女院の御方(東面)に於て和歌を講ぜらる。題に云う、池上の月を翫ぶ、序題題、予講師を勤め、左大臣読師たり。大納言の歌を講じ了りて後、しばらくして頗る遅々たり、これ左大臣と関白殿との歌の次第の事なり。大殿の命に依りて、先ず関白殿の歌を講じ、次に左大臣、次に大殿。この間女房簾中より、三首の歌を出ださる、薄様三重に書き、扇の上に置かる(扇は銀の骨、画図殊に例なり)、同じくこれを講ず、皆以て秀歌なり。人々感歎す。ここに簾中より、御製を関白に給う、関白大殿に伝え献ず、便宜なり。大殿気色せしめ、講師座を起ちて、臣下の歌に擬す。新中納言通俊卿を召して、御製を講ぜらる、誠に以て優妙なり、感歎に堪えず、満座諷詠し、暁更に及びて各分散す。予今日殿上人の布衣の中に直衣を著く、これ弁官の人一人臣として直衣冠を著けらるる時、便無かるべきの故なり。加之、講師の役を勤むる間、数刻御前に候う、尤も善しと為すのみ、愚意の案、已に礼法に叶う。両殿下(烏帽子直衣)、左大臣公卿(冠直衣)、但しこの中藤中納言(基)・左宰相中将(伊実)・右兵衛督(雅俊)・新宰相中将(宗通)は布衣なり。皇太后宮権大夫(公定)は衣冠、上皇は御烏帽子直衣、と見えたり。これは堀河の天皇の御世にて、鳥羽殿におわしまししは、白川の上皇におわします。大殿と有るは、京極の前の関白師実公、左大臣は、源の俊房公、関白は、京極殿の御子後二条の師通公なり。この時内大臣にて、関白ながら、左大臣の次に立ち給えりき。
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『玉勝間』四の巻 門院と申す御号の事同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
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