玉勝間 / 八の巻 八的
同記に、寛弘二年五月十四日辛酉、早旦、資平自左府來云、昨出馬塲、左右近各三人、又三兵、次ニ令馳廐馬、次令射八的。
新字:同記に、寛弘二年五月十四日辛酉、早旦、資平自左府来云、昨出馬塲、左右近各三人、又三兵、次ニ令馳厩馬、次令射八的。
書き下し
同じ記に、寛弘二年五月十四日辛酉、早旦、資平左府より来たりて云う、昨馬場に出ず、左右近各三人、又三兵、次に廐の馬を馳せしめ、次に八的を射しむ。
現代語訳
同じ日記(小右記)に「寛弘二年五月十四日辛酉、早朝、資平が左大臣(藤原道長)のもとから来て言うには、昨日、馬場にお出ましになった。左右近衛から各三人、また三兵、次に厩の馬を走らせ、次に八的を射させた」とある。
解説
小右記から「八的」の語を書き留めた段である。八的は、八つの的を立てて射る弓の催しを言うと考えられる。記事は、藤原実資の養子資平が左大臣藤原道長のもとから戻って、前日の馬場での催しを報告したもので、近衛の官人が技を競い、厩の馬を走らせ、八的を射させたという。五月は端午の節会の前後で、宮廷では騎射や競馬が盛んに行われた季節である。宣長は説明を加えず、語を記録に残すにとどめているが、題に掲げたのは、後世には伝わらなくなったこの催しの名に関心をもったからであろう。古記録には、今は失われた行事や遊びの名が数多く眠っている。それらを一つずつ拾い上げておくことが、昔の暮らしを知る手がかりになる。道長の時代の武芸の催しの一端を伝える、簡潔な抜き書きである。
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