玉勝間 / 二の巻 春記
春記と云ふふみは、春宮ノ大夫資房ノ卿のにきなり。今の世には、唯だ一卷ならでは傳はらずと云へり。おのが見たりし本も、八十五ひら有て、一册のみなりき。
新字:春記と云ふふみは、春宮ノ大夫資房ノ卿のにきなり。今の世には、唯だ一巻ならでは伝はらずと云へり。おのが見たりし本も、八十五ひら有て、一册のみなりき。
書き下し
春記と云うふみは、春宮の大夫資房の卿のにきなり。今の世には、ただ一巻ならでは伝わらずと云えり。おのが見たりし本も、八十五ひら有りて、一冊のみなりき。
現代語訳
『春記』という書物は、春宮大夫藤原資房卿の日記である。今の世には、ただ一巻しか伝わらないという。私が見た本も、八十五丁あって一冊だけであった。
解説
平安中期の公卿藤原資房の日記『春記』についての短い覚え書きである。資房は『小右記』の筆者実資の孫にあたり、春宮大夫を務めたことから、その日記は春宮の「春」を取って『春記』と呼ばれる。宣長は、今の世には一巻しか伝わらないと聞いていること、自分が見た本も八十五丁の一冊だけだったことを記している。この巻で宣長は『小右記』『兵範記』など多くの古記録を写してきたが、それらは写本の形で人から人へ借りて読むほかなく、どれだけ伝わっているかを知ること自体が研究の一部だった。自分が見た本の丁数まで記すのは、後の人が別の本と照らし合わせる手がかりを残すためである。資料の所在と分量を正確に書き留める習慣は、今の研究の基本でもある。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊さてこの中右記は、中の御門の右大臣宗忠公の日記にて、寛治元年正月より、保延元年十二月までの事を記されたり、合わせて七十巻あり。然れども、のりながが見たりし本は、闕けたる所々ありしを、そののち全きは未だ得見ず。寛治の頃は、宗忠公のいまだ若くて、殿上人におわせし程の事なり。
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『玉勝間』六の巻 天皇の御前に直に訴を申せし事春記に云う、長暦四年、十月二十二日、今日初めて〓内大臣の二条第に遷る、云云。今夕行幸の間、東院の東の大路、神解小路の辺に於て、宇佐宮の下部(月来の訴人なり、件の愁人、申文を取らる、但し未だ裁許を省みず、愁え命を見る者なり)、一々、衣冠を著し、御輿の右方に進み寄り、音を挙げて訴訟を致すの間、希有の事なり。右将等追却せざるを為す、不覚の者等なり。予追却せしめ了んぬ。須く搦め捕うべし、然れども新所に行幸するの間なり、左右憚り有るなり、故に搦めしめざるなり。事尤も非常なり、云云。また、同年十二月二十五日、平野行幸の日なり、云云。今夕還御の間、東洞院二条の辺にて和泉国の百姓、文を捧げ音を挙げて、愁訴を成す、云云。行経追却せしめず、如何。この事度々に及ぶ、なお召し禁めらるべきなり、云云と見えたり。いともかしこき御前に、ただにうったえごと申せるは、いとめずらし。長暦は、後朱雀天皇の御世なり。春記は、春宮の大夫資房の卿の日記なり。
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『玉勝間』八の巻 明明日明後日のことを、小右記に、明明日と、ところどころに見えたり。
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