玉勝間 / 三の巻 揚弓と云ふ物
同記云、亨祿三年二月三日午時、參内、有御揚弓、と見えたり。禁中にも斯かる事ありしにこそ。
新字:同記云、亨禄三年二月三日午時、参内、有御揚弓、と見えたり。禁中にも斯かる事ありしにこそ。
書き下し
同記に云う、享禄三年二月三日午の時、参内す、御揚弓有り、と見えたり。禁中にもかかる事ありしにこそ。
現代語訳
同じ『二水記』に「享禄三年二月三日、午の刻に参内した。揚弓(ようきゅう)の御遊びがあった」と見える。宮中にもこのような遊びがあったのである。
解説
揚弓は小さな弓で座ったまま的を射る遊戯で、江戸時代には町の楊弓場(矢場)で庶民が楽しむ娯楽になっていた。宣長の時代には盛り場の遊びという印象が強かったはずで、それが戦国期の宮中で天皇の遊びとして行われていたことに、宣長は「禁中にもかかる事ありしにこそ」と小さな驚きを記している。今は俗な遊びと見られているものが、かつては高貴な場でたしなまれていた。こうした発見は、ものの格の上下が時代によって入れ替わることを教えてくれる。宣長は有職故実を調べる中で、儀式の大きな事柄だけでなく、こうした遊びの記録も丁寧に拾っている。暮らしの細部に目を配ることが、過去の人々の姿を具体的に知る手がかりになるからである。
関連する章句
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