玉勝間 / 八の巻 御家の文と云へる事
同じふみに、けふの使は德大寺ノ中將公〓なり云云、もえぎの下がさね、御家の文のもかうを、色色におりたりしにや云云。
新字:同じふみに、けふの使は徳大寺ノ中将公〓なり云云、もえぎの下がさね、御家の文のもかうを、色色におりたりしにや云云。
書き下し
同じふみに、きょうの使は徳大寺の中将公〓なり云云、もえぎの下がさね、御家の文のもこうを、色々におりたりしにや云云。
現代語訳
同じ書物に「今日の使いは徳大寺中将公〓である云々、萌黄の下襲に、御家の紋の木瓜(もっこう)をいろいろな色で織り出していたのであろうか云々」とある。
解説
「御家の文(紋)」という言い方が、南北朝時代の宮廷の記録にすでに見えることを書き留めた段である。徳大寺家は藤原氏の流れをくむ公家で、その家の紋は木瓜であった。記録では、使いに立った徳大寺の中将が、萌黄の下襲に家の紋の木瓜を色とりどりに織り出していたという。家紋は、もとは公家が牛車や衣服につけた文様から始まり、やがて家ごとに定まった印となり、武家にも広まった。宣長は、題に「御家の文と云へる事」と掲げるだけで説明を加えないが、自分の家の文様を装束に織り出して晴れの場に臨む習いが、すでにこの頃に定まっていたことを示す記事として記録したのであろう。江戸時代には家紋は町人にまで広まり、紋付の着物は礼装の基本となった。今も冠婚葬祭に残る家紋の文化の古い姿を垣間見せる段である。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 菊の御文葉室の大納言頼親の卿、右衛門の佐たりしほど、文応元年八月、新院石清水御幸の記一巻あり。それに、御装束をしるせる、赤色の御袍(窠文の中に菊八葉、蘇芳の御下襲、同じく御半臂、有文の御帯)と見ゆ。菊の御紋と云うはかようの文の、御例になりたる物にや。
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『玉勝間』五の巻 車の紋の事同じ書に、車の文の事、さだ有り。かの頃までは、今の世のごとく、家々の定紋と云うものは、無かりしように聞えたり。然れども、車の文の事、人々大略、定めてつけけるように聞ゆ。
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『玉勝間』十一の巻 強装束衣紋男の眉をぬき鬚をはさみ歯を染る事同じ書にいわく。およそ装束の衣紋、上代は沙汰に及ばず、鳥羽院の御代より、強き装束を用うる故に、衣紋の沙汰出で来ぬるなるべし。上代は皆大装束とて、ふくさにて、強くは調えざるなり。然れども鳥羽院已前の人の影を書くとて、鳥羽院已後初まりたる、強装束の衣紋を書きたるは、絵師の不覚なり云云。およそかの御代已前は、男眉の毛を抜き、鬚をはさみ、金を付くる事一切これ無し、末代に及びて毎度矯飾の至りなり。
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『玉勝間』十一の巻 中間と云ふものの事永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
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『玉勝間』六の巻 南殿の御階の桜橘庄無くは、いかにしてかは、おおやけわたくし候うべき。近代の上達部、おおく国を賜わり候うは、封戸の無きかする事なめりと思い候うに、召さるるこそ、ちから及ばぬことなれ云云。また云わく、近代となりて、こわき物のうえに、なおこわき物を着かためて、こしあて、こうぶりとどめ、えぼしとどめなど申して、ちからも及ばず、したてあいて候うなるに、しおしおくたくたとして、あさましげなる雑色一二人ばかりぐして云云。
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『玉勝間』六の巻 客殿吉部秘訓抄に、文治二、正、十、同記に云う、大夫史広房入り来る、先ず中門の外に立つ、予客殿に出ず、とあり。客殿と云うこと、その頃も有りしなり。
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