玉勝間 / 八の巻 ももだち
兵範記に、保元三年三月廿二日、石〓水ノ臨時ノ祭の、舞人の裝束に、摺袴(股立津加留也)と有るは、今ノ世にも云ふ股立にや。
新字:兵範記に、保元三年三月廿二日、石〓水ノ臨時ノ祭の、舞人の装束に、摺袴(股立津加留也)と有るは、今ノ世にも云ふ股立にや。
書き下し
兵範記に、保元三年三月二十二日、石清水の臨時の祭の、舞人の装束に、摺袴(股立つかるなり)と有るは、今の世にも云う股立にや。
現代語訳
兵範記に、保元三年三月二十二日の石清水の臨時の祭で、舞人の装束に「摺袴(股立をとる)」とあるのは、今の世でも言う「股立(ももだち)」であろうか。
解説
袴の左右の開きの部分を言う「股立(ももだち)」の古い用例を、平信範の日記兵範記から拾った段である。袴の股立を取るとは、この開きの上部をつまんで腰紐に挟み、裾をたくし上げて動きやすくすることで、江戸時代の武士が走ったり戦ったりするときの身支度としてよく知られていた。兵範記の記事は、石清水八幡宮の臨時の祭で舞う舞人が、摺り染めの袴の股立をとっていたことを伝える。舞うための身支度が、後の武士の身ごなしと同じ所作であったことが分かる。宣長は「今の世にも云ふ股立にや」と、日常の語との一致を控えめに指摘するにとどめる。装束の細部の呼び名は、実物が失われると意味が分からなくなりやすい。古記録に残る一語を、今の言葉と結びつけておくことの価値を示す、有職故実の小さな覚え書きである。
関連する章句
-
『玉勝間』三の巻 片衣小袴と云ふ物二水記に云う、大永七年正月七日、早旦室町殿に出仕す、見物せしむ、道永以下悉く以て片衣小袴なり、当時先ず無為の間、然るべからざるの体なり、云云、武田出仕の体これに同じ、とあり。片衣小袴と云うこと、此外にもところどころ見えたり。今の世の肩衣半袴の事と聞こゆ。
-
『玉勝間』十一の巻 中間と云ふものの事永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
-
『玉勝間』八の巻 ちりめん又同じ祭の使の装束に、有文の下襲、縮緬の綾袴等を着す、と見えたり。縮緬は、今の世にも云うちりめんなるべし。但し昔は、ちぢめんと云いけむを、ちりめんとは訛れるなるべし。
-
『玉勝間』八の巻 御家の文と云へる事同じふみに、きょうの使は徳大寺の中将公〓なり云云、もえぎの下がさね、御家の文のもこうを、色々におりたりしにや云云。
-
『玉勝間』八の巻 八的同じ記に、寛弘二年五月十四日辛酉、早旦、資平左府より来たりて云う、昨馬場に出ず、左右近各三人、又三兵、次に廐の馬を馳せしめ、次に八的を射しむ。
-
『玉勝間』十二の巻 八人のやをとめ俗に八人のやおとめと云うこと有り。土御門の内大臣通親公の、厳島御幸の記に、御神楽のやおとめ八人と見えたり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る