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玉勝間 / 八の巻 音学五書と云ふふみ

もろこしの國に、明の代の末に、顧炎武と云ひし人、音學五書と云ふふみを作りて、後の世の音韻の、世世に訛りきて、切古への音とは、たがへる事、又韻書どものひが事などを、古キ書どもの韻語を、ことごとく引キ出證して、委しく論ひたり。今の世のからさへづりをしも、華音など、ことごとしく云ひて、いみしく尊き物に思ひをる人どもに見せて、目覺させま欲しき書にぞ有ける。五書は、音論と云ふ三卷、詩本音と云ふ十卷、易音と云ふ三まき、唐音正と云ふ廿卷、古音表と云ふ二まき、にて、あはせて三十八卷あり。

新字:もろこしの国に、明の代の末に、顧炎武と云ひし人、音学五書と云ふふみを作りて、後の世の音韻の、世世に訛りきて、切古への音とは、たがへる事、又韻書どものひが事などを、古キ書どもの韻語を、ことごとく引キ出証して、委しく論ひたり。今の世のからさへづりをしも、華音など、ことごとしく云ひて、いみしく尊き物に思ひをる人どもに見せて、目覚させま欲しき書にぞ有ける。五書は、音論と云ふ三巻、詩本音と云ふ十巻、易音と云ふ三まき、唐音正と云ふ廿巻、古音表と云ふ二まき、にて、あはせて三十八巻あり。

書き下し

もろこしの国に、明の代の末に、顧炎武と云いし人、音学五書と云うふみを作りて、後の世の音韻の、世々に訛りきて、切古えの音とは、たがえる事、又韻書どものひが事などを、古き書どもの韻語を、ことごとく引き出で証して、委しく論いたり。今の世のからさえずりをしも、華音など、ことごとしく云いて、いみじく尊き物に思いおる人どもに見せて、目覚させま欲しき書にぞ有ける。五書は、音論と云う三巻、詩本音と云う十巻、易音と云う三まき、唐音正と云う二十巻、古音表と云う二まき、にて、あわせて三十八巻あり。

現代語訳

中国で、明の時代の末に顧炎武という人が音学五書という書物を作って、後世の字音が代々訛ってきて古代の音とは違ってしまったこと、また韻書類の誤りなどを、古い書物の韻を踏んだ言葉をことごとく引き出して証明し、詳しく論じている。今の世で中国語のさえずりを「華音」などと大げさに言って、たいそう尊いものと思っている人々に見せて、目を覚まさせたい書物であった。五書は、音論という三巻、詩本音という十巻、易音という三巻、唐韻正という二十巻、古音表という二巻で、合わせて三十八巻ある。

解説

清朝の考証学の祖とされる顧炎武の音学五書を紹介した段である。顧炎武は明末清初の学者で、詩経や易経などの古い韻文の押韻を徹底的に調べ上げ、古代の漢字音が後世の音と大きく異なっていたことを実証した。宣長は、同時代の日本で中国語の当世の発音を「華音」と呼んで尊ぶ人々を「からさえずり」と皮肉り、その音も古の音から訛ったものにすぎないことを、中国の学者自身が証明していると言う。宣長にとって、この書は漢意批判の格好の援軍であった。同時に、古い文献の用例を網羅して証を立てる顧炎武の方法は、宣長自身の方法と深く通じ合っている。宣長は漢字音の研究でも字音仮字用格などの著作を残しており、音韻への関心は深かった。国を越えて同じ方法をとる学者への共感が、この段にはにじんでいる。

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