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玉勝間 / がくもん

世ノ中に學問と云ふは、からぶみ學びの事にて、皇國の古、をまなぶをば、分て神學倭學國學など云ふなるは、例のから國をむねとして、御國をかたはらに成せる云ひざまにて、いといとあるまじきことなれ共、古へは唯だから書學びのみこそ有けれ、御國の學びとては、もはらとする者は無かりしかば、おのづから然か云ひならふべき勢ひなり。しかは有れども、近き世と成りては、皇國のをもはらとするともがらも多かれば、からぶみ學びをば、分て漢學儒學と云ひて、此皇國のをこそ、うけばりて唯だに學問とは云ふべきなれ。佛學なども、他よりは分て佛學と云へども、法師のともは、それをなむ唯だに學問とは云ひて、佛學とは云はざる、これ然るべきことわりなり

新字:世ノ中に学問と云ふは、からぶみ学びの事にて、皇国の古、をまなぶをば、分て神学倭学国学など云ふなるは、例のから国をむねとして、御国をかたはらに成せる云ひざまにて、いといとあるまじきことなれ共、古へは唯だから書学びのみこそ有けれ、御国の学びとては、もはらとする者は無かりしかば、おのづから然か云ひならふべき勢ひなり。しかは有れども、近き世と成りては、皇国のをもはらとするともがらも多かれば、からぶみ学びをば、分て漢学儒学と云ひて、此皇国のをこそ、うけばりて唯だに学問とは云ふべきなれ。仏学なども、他よりは分て仏学と云へども、法師のともは、それをなむ唯だに学問とは云ひて、仏学とは云はざる、これ然るべきことわりなり

書き下し

世の中に学問と云うは、からぶみ学びの事にて、皇国の古をまなぶをば、分けて神学・倭学・国学など云うなるは、例のから国をむねとして、御国をかたわらに成せる云いざまにて、いといとあるまじきことなれども、古はただからぶみ学びのみこそ有りけれ、御国の学びとては、もはらとする者は無かりしかば、おのづから然か云いならうべき勢いなり。しかは有れども、近き世となりては、皇国のをもはらとするともがらも多かれば、からぶみ学びをば、分けて漢学・儒学と云いて、この皇国のをこそ、うけばりてただに学問とは云うべきなれ。仏学なども、他よりは分けて仏学と云えども、法師のともは、それをなむただに学問とは云いて、仏学とは云わざる、これ然るべきことわりなり。

現代語訳

世の中で学問といえば漢籍の学びのことで、この国の古を学ぶほうを、わざわざ神学・倭学・国学などと呼び分けている。これはいつもの、中国を中心に置いてこの国を傍らに置く言い方で、まったくあってはならないことだ。とはいえ昔は漢籍の学びしかなく、この国の学びを専らにする者がいなかったから、自然にそう言い慣わされたのだろう。しかし近ごろはこの国の学びを専らにする者も多いのだから、漢籍の学びのほうを漢学・儒学と呼び分けて、この国の学びこそを、堂々とただ「学問」と呼ぶべきである。仏教の学問も、外からは仏学と呼び分けるが、僧たちはそれをただ学問と呼んで仏学とは言わない。これは道理にかなっている。

解説

言葉の呼び分けに、力関係が現れるという指摘である。無標のほうが中心で、わざわざ限定語をつけて呼ばれるほうが周辺になる。学問といえば漢学のことで、この国の学びは国学と呼び分けられる——その非対称を宣長は突く。そして解決策も対称的だ。漢籍の学びを漢学と呼び分けて、こちらこそを「学問」と呼べ、と。僧が自分たちの学問をただ学問と呼び、仏学とは言わないのを例に挙げているのが鋭い。中心にいる者は自分に限定語をつけない。国学という語そのものへの違和感を、宣長自身が書き残していることは押さえておきたい。

この章句が説くこと

学問と漢学神学倭学国学うけばりてただに学問と云う呼び分けと力関係学問

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