玉勝間 / 六の巻 筑紫ノ君石井が事
周り六丈は、高さにかなはざれば、六の上に、卅など云ふ字の有けむが、落ちたるなるべし。斯くて此石井が造り置きたりし墓のかまへは、今の世にも殘りて、現に有るよしにて、近きほど、その圖をしるし、考へをも添へたるを、見しに、まことに風土記にしるせる如くにぞ有けむ、とぞ覺ゆる。そもそも石のかぎりして、斯ばかりいかめしく、大きなるかまへを物せん事は、今の世の國持大名などのちからにも、いとた易くは、出來がたかるべし。是れを思へば、そのかみ國國の國造の身のほども思ひはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの圖は、寫しおきたりしを、今え見出ず、見出たらむ時に、又も云ひてんとす。
新字:周り六丈は、高さにかなはざれば、六の上に、卅など云ふ字の有けむが、落ちたるなるべし。斯くて此石井が造り置きたりし墓のかまへは、今の世にも残りて、現に有るよしにて、近きほど、その図をしるし、考へをも添へたるを、見しに、まことに風土記にしるせる如くにぞ有けむ、とぞ覚ゆる。そもそも石のかぎりして、斯ばかりいかめしく、大きなるかまへを物せん事は、今の世の国持大名などのちからにも、いとた易くは、出来がたかるべし。是れを思へば、そのかみ国国の国造の身のほども思ひはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの図は、写しおきたりしを、今え見出ず、見出たらむ時に、又も云ひてんとす。
書き下し
周り六丈は、高さにかなわざれば、六の上に、三十など云う字の有りけむが、落ちたるなるべし。かくてこの石井が造り置きたりし墓のかまえは、今の世にも残りて、現に有るよしにて、近きほど、その図をしるし、考えをも添えたるを、見しに、まことに風土記にしるせるごとくにぞ有りけむ、とぞ覚ゆる。そもそも石のかぎりして、かばかりいかめしく、大きなるかまえを物せん事は、今の世の国持大名などのちからにも、いとたやすくは、出で来がたかるべし。これを思えば、そのかみ国々の国造の身のほども思いはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの図は、写しおきたりしを、今え見出でず、見出でたらむ時に、また云いてんとす。
現代語訳
「周り六丈」というのは高さと釣り合わないので、六の上に「三十」などという字があったのが落ちたのであろう。こうしてこの石井が造っておいた墓の構えは、今の世にも残っていて現にあるということで、最近その図を記し、考察も添えたものを見たが、本当に風土記に記すとおりであったのだろうと思われる。そもそも石だけで、これほどいかめしく大きな構えを造ることは、今の世の国持大名などの力でも、たやすくはできないであろう。これを思えば、当時の国々の国造の勢力のほども推し量られて、並々ではなかったのであろう。あの図は写しておいたのだが、今見つけ出せない。見つけ出したときに、また述べようと思う。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 筑紫ノ君石井が事昔つくしの国に、筑紫の君石井と云える国造有りけり。君と云うは、上の件に云える、国造の中の一色なる君なり。書紀には、すなわち国造としるされたり。されどその子の葛子と云いしをば、筑紫の君と記されたれば、君にてぞ有りける。継体天皇の御世に、皇朝にそむきて、無礼かりければ、討手の使を遣わして、ほろぼし給いき。いけりし世に、かねて墓をなん造りもうけたりける。その構えの、いみしく大きに、いかめしかりける事、筑後の国の風土記にしるせるよう、上妻県、県の南二里に、筑紫君磐井の墓墳有り、高さ七丈、周り六丈、墓田は南北各六十丈、東西各四十丈、石人・石盾各六十枚、交陳して行を成し、四面を周匝す。東北の角に当たりて、一つの別区有り、号して衛頭と曰う。その中に一石人有り、従容として地に立つ、号して解部と曰う。前に一人有り、裸形にして地に伏す、号して偸人と曰う。側らに石猪四頭有り、賊物と号す。彼の処にまた石馬三匹、石殿三間、石蔵二間有り。古老伝えて云う、雄大迹天皇の世に当たりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に偃わず、生平の時、予めこの墓を造る。俄にして官軍動発し、これを襲わんと欲するの間、勢いの勝たざるを知り、独り自ら豊前国上膳県に遁れ、南山の峻嶺の曲に終わる。ここに於て官軍、追い尋ねて蹤を失う。士の怒り未だ泄れず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕とす。古老伝えて云う、上妻県に多く篤疾有るは、蓋しこれに由るか、としるしたり。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事また世に名高き所などをば、外なるをも、しいておのが国おのが里のにせまほしがるならいにて、ただいささかのより所めきたる事をも、かたくとらえて、強いてここぞと云いなして、しるしを作るたぐいなど、はた世に多きを、さる心して、まどうべからず。ふみなどは、むげに見たる事無き、ひたぶるの賤の男の、覚えいて語ることは、しり口あわず、しどけなく、ひがことのみ多かれど、その中には、かえりておかしき事もまじるわざなれば、さるたぐいをも、心とどめて聞くべきわざなり。されどまた、昔なまなまの物知り人などの、尋ね来たるが、ひが定めして、ここはしかしかの跡ぞなど、教えおきたるを聞きおりて、里人は、まことにさることと信じて、子うまごなどにも、語り伝えたるたぐいも有りしなれば、うべうべしくきこゆる事も、なおひたぶるには信じがたし。またみずからそのところのさまを行き見てさだむるにも、くさぐさ心うべき事ども有り。おおかた所のさまかみさびて、木立しげく物ふりなどしたるを見れば、こここそはと、目とまる物なれど、それはたうちつけには頼みがたし。大かたなにならぬ所にも、古めきたる森はやしなどは、多く有るものなり。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遥かなる古えのを、中頃とめ失いたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたたやすからぬわざになむ有りける。そのゆえを云わむには、まずこの古き所を尋ぬるわざは、ただに古の書どもを考えたるのみにては、知りがたし。いかに委しく考えたるも、書もて考え定めたる事は、その所にいたりて見聞けば、いたく違う事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、その国にては、さすがに書も伝え、語りも伝えて、まがい無き事も有り。さればみずからその地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問い聞きなどもせでは、事たらわず。またただ一たび物して、見聞きたるのみにても、なおたらわず。行きて見聞きて立ちかえりて、またふみどもと考え合わせて、またまたも行きて、よく見聞きたるうえならでは、定めがたかるべし。さてまたそのところの人に逢いて、問い聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古えの事を、あまりたしかに知りがおに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考えなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云うが多ければ、そはいと頼みがたく、中中の物そこないなり。
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