玉勝間 / 八の巻 但馬国の城の崎のいでゆ
增鏡に、安嘉門院、丹後のあまのはし立御覽じにとて、おはします。それより但馬のきのさきのいで湯めしに、くだらせ給ふと有り。此溫泉、その程より、名高かりけむ。
新字:增鏡に、安嘉門院、丹後のあまのはし立御覧じにとて、おはします。それより但馬のきのさきのいで湯めしに、くだらせ給ふと有り。此温泉、その程より、名高かりけむ。
書き下し
増鏡に、安嘉門院、丹後のあまのはし立御覧じにとて、おわします。それより但馬のきのさきのいで湯めしに、くだらせ給うと有り。此温泉、その程より、名高かりけむ。
現代語訳
増鏡に「安嘉門院が、丹後の天の橋立を御覧になろうとしてお出かけになる。そこから但馬の城崎の出湯にお入りになるために下って行かれる」とある。この温泉は、その頃から名高かったのであろう。
解説
但馬の城崎温泉が、鎌倉時代にはすでに名高かったことを増鏡の記事から推した段である。増鏡は、後鳥羽院の誕生から後醍醐天皇の隠岐からの帰京までを描いた歴史物語で、宮廷の華やかな様子を伝える。安嘉門院は後堀河天皇の姉にあたる皇女で、天の橋立を見物したついでに城崎の湯に入りに下ったという。都の貴人がわざわざ湯治に出かけるほど、城崎の湯は知られていたのである。城崎温泉は古くからの湯と伝えられ、江戸時代には湯治の名所として広く人を集めていた。宣長は、自分の時代の名所がいつ頃から名を知られていたかを、確かな記録によって確かめようとした。名所の由緒は後から作られた伝承に頼りがちだが、宣長は物語や日記の確かな記述にその証を求める。伝説と記録を分けて考える、地に足の着いた地誌への関心が表れた段である。
関連する章句
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