玉勝間 / 八の巻 下向
ものもうでして歸るを、下向と云ふは、中昔の書どもには、多く還向と書り。然るを關東に下向、筑紫に下向スなど云ふは、ひとつにまがひて、下向と書く事には成れるなるべし。
新字:ものもうでして帰るを、下向と云ふは、中昔の書どもには、多く還向と書り。然るを関東に下向、筑紫に下向スなど云ふは、ひとつにまがひて、下向と書く事には成れるなるべし。
書き下し
ものもうでして帰るを、下向と云うは、中昔の書どもには、多く還向と書り。然るを関東に下向、筑紫に下向すなど云うは、ひとつにまがいて、下向と書く事には成れるなるべし。
現代語訳
寺社に参詣して帰ることを「げこう」と言うのは、中世の書物には多く「還向」と書いている。それなのに「関東に下向」「筑紫に下向する」などと言うのと一つに紛れて、「下向」と書くことになったのであろう。
解説
参詣を終えて帰ることを言う「げこう」の字をめぐる考証である。宣長によれば、本来は帰る意の「還向」と書いたが、都から地方へ下る意の「下向」と音が同じであるため混同され、参詣帰りも「下向」と書かれるようになったという。伊勢に住む宣長にとって、参宮の人々が行き交い、「参宮」と「下向」は日常の言葉であったから、身近な語への関心であったろう。一方で都から地方へ行くことを「下る」と言い、地方から都へ行くことを「上る」と言うのは、都を中心に置いた昔の言い方である。字は違っても音が同じならば、使ううちに一つに紛れていく。前に見た「用捨」と「容捨」、「反」と「端」と同じく、日本語の字遣いが音を軸に揺れ動いてきたことを示す例である。書き言葉の揺れの中に、人々が言葉を耳で覚えてきた歴史が見える。
関連する章句
-
『玉勝間』八の巻 道者伊勢にて、他国の参宮人を、道者と云えり。小朝熊の社神鏡沙汰文の中に、天福二年の文書の言に、熊野詣の道者、下総の国白井の郡の住人、南無妙房と有り。
-
『玉勝間』六の巻 峠同じ百首に、「あしがらの山の峠に今日きてぞ富士の高根のほどは知らるる、峠と詠めり。この字は、後の人の書けるにも有るべけれど、とうげと詠める故にかく書けるなり。日向をひゅうが、多武峰をとうのみねと云う音便の、同じ例にて、手向を、そのかみ早くとうげと云いしなり。
-
『玉勝間』八の巻 おちつき物へゆきつきて、喰う食を俗に落着と云うこと、仁治三年内宮仮殿記に、奉遷使祭主従三位神祇権大副大中臣隆通、亥の刻許り参宮す、云云、御息所は経継神主の宿館、長官落付の飯酒を沙汰し進む、と有り。
-
『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
-
『玉勝間』十の巻 鈴奏行幸の時に、鈴の奏と云うこと有り。同じ書の行幸の条の裏書に云う、若し少納言遅参せば、少将相代りて鈴の奏を奉仕す、その儀、囲司奏し了りて、退き帰るの後、左腋門より入り、長楽門の前の橋を経て、進みて版位に就き、揖して奏して云う、御共に持ち仕え奉らむ鈴賜わらむと申す、云々、還御の時は御輿を撤きて後、囲司の奏を待たず、長楽門の前の橋の頭より進み、奏して云う、御共に持ち奉りし鈴進中と申す云々。
-
『玉勝間』八の巻 かむかへと云ふ詞かむかえと云う言、かんがえともこうがえとも云うは、後の音便にて、もとは、ムを牟と、たしかに云い、下のカをも、清みて云いし詞なるべし。其故は、此言の意、カは如何ならむ、いまだ思い得ざれども、ムカエは、かれとこれとを、比校えて思いめぐらす意なるべきを、音便にムをンともウとも云いなすから、その音便に引かるる例にて、カをも濁るなり。然るを近き頃、古学のともがらの文に、これをカガナエとしも云うなるは、かつて例も由も無きみだりごとなり。こはもと、我があがたいのうしの文に、書きそめられたる事にて、そのよりどころは、倭建の命の御歌に、かがなべて、よにはここのよ云云と有るを、心得誤られたる物なり。此御歌のかがなべては、考えてと云う事には有らず。然るを後の学者、そのもとをも、よくも尋ねたださずして、唯だかの大人の書かれたるを、ゆくりなく拠り所にして、みだりに云うは、いかにぞや。すべて近き年頃古学のともがらの癖にて、しいて文を古めかさむとて、かかる類いのひが事のみしちらす、いと心づき無く、うるさきわざなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る