玉勝間 / 四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事
すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば皆それより出たる事と、すなるは、いとをかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは佛書の言なる。こは昔僧どもの、常に云ふを、聞なれて、うつれる物なり。又ほとけぶみの言ならぬも、世にひろく讀みならへる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云ふ物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞知りてならひ云ふべきよし無きものをや。
新字:すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば皆それより出たる事と、すなるは、いとをかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云ふを、聞なれて、うつれる物なり。又ほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならへる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云ふ物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞知りてならひ云ふべきよし無きものをや。
書き下し
すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
現代語訳
総じて近頃の儒者が、たいへん縁遠い漢籍にまれに見える事で、こちらの言葉と似ているものを見つけると、みなそこから出た事だとするのは、まことにおかしなことである。おおよそ後の世の言葉に字音の語が多いのは、多くは仏書の言葉である。これは昔、僧たちがいつも言うのを人々が聞き慣れて、移ってきたものである。また仏書の言葉でないものも、世に広く読み慣わしている書物にある言葉ならばともかく、縁遠い書物にごくまれに見える言葉は、法師も儒者も口にいつも言うものではないので、まして一般の世の人が聞き知って習い言うはずのないものであるのに。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事古え三韓は、もはら皇朝に従いいて、常に参り通いしかば、おのづからかの国の語のうつれるも有るべく、また本ここに無かりし物の、かの国より渡りもうで来つるなどは、かの国の名を、やがて用いたるも有るべく、また古え皇国の語を、韓人のならいて、かの国の言にも成れるが、今の世まで朝鮮に残れるも有るべきを、かえりてそれをも、ひたぶるに皆、かしこより出でたらんと思うは、またひが事なり。さてまた古え母をオモと云えること有り。これをも、漢国にて阿母と云うより出でたりと、儒者などは例の云えど、然らず。本よりの古言なり。万葉の東歌には、アモとも詠めれど、それも漢国の阿母によれるには有らず。オモを、東国の言にさ云えるなり。また今の俗言に、たまたまからぶみに見えたる言と、似たるが有るをも、かれを取れりと、例の云うなり。母をカカと云うは、ある漢籍に、家家と云える事あれば、そを取れるなりと、近き世にある人は云えれど、いとあたらぬ事なり。いかにと云うに、さる物遠きから国の書に、稀れに見えたる言を、此方の俗人の、いかでか知りて取り用いる事あらん。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』十の巻 譬、と云ふものの事ただに云いては、ことゆきがたき心も、万の物のうえに譬えて云えば、ことも無くよく聞ゆる事、多く有るわざなり。さればこの譬えと云う事、神代より有りて、歌にも見え、今の世の人も、常にものすることなり。皇国のみにもあらず、戎の国々にも、古えより有りけるを、もろこし人は、すべて物の譬えをとる事、いと上手にて、言すくなくて、いとよく聞えて、げによく譬えたりとおぼゆる事の多かるを、仏の経どもに、殊に多く見えたるたとえは、多くは物遠くして、よくあたれりとも聞えぬ事をくだくだしく長々と云えるなど、いといと拙なし。仏と云える人の云える事も、かかるものにや。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひすべて何事も、なべての世の人の真心にさかいて、ことなるを善き事にするは、外国のならいのうつれるにて、心を作り飾れる物と知るべし。
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