玉勝間 / 八の巻 はやがね
元長卿ノ記に、大永五年二月二日、云云、相國寺有早鐘、未聞子細、無覺束と有り。
新字:元長卿ノ記に、大永五年二月二日、云云、相国寺有早鐘、未聞子細、無覚束と有り。
書き下し
元長卿の記に、大永五年二月二日、云云、相国寺に早鐘有り、未だ子細を聞かず、覚束無し、と有り。
現代語訳
元長卿記(甘露寺元長の日記)に「大永五年二月二日、云々。相国寺で早鐘が鳴った。まだ事情を聞いていない。気がかりである」とある。
解説
急を知らせるために寺の鐘を続けざまに打つ「早鐘」の語が、室町時代の公家の日記に見えることを書き留めた段である。元長卿記は戦国時代初めの公家、甘露寺元長の日記で、大永五年は西暦一五二五年にあたる。京の相国寺で早鐘が打たれたが、何が起きたのか分からず不安だというだけの短い記事で、火事か騒動かも記されていない。戦乱の続く京では、鐘の音一つが人々の不安をかき立てたのであろう。江戸時代にも火事の際には半鐘を早打ちし、「胸が早鐘を打つ」といった言い回しも生まれた。宣長は語の古い用例を示すだけで余計な推測を加えないが、その簡潔な抜き書きから、鐘の音に耳を澄ます乱世の都の空気が伝わってくる。今も使う「早鐘を打つ」という表現の古い用例として、覚えておきたい記事である。
関連する章句
-
『玉勝間』十二の巻 借家同じ記に、近所の借家と有り。
-
『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
-
『玉勝間』一の巻 歌の御会のめぐらし文甘露寺権大納言元長卿記に云う、永正五年正月十四日、和哥御会の廻文を書き、釜殿を以て之を遣わす、鷺に慶音有り、右の御題、来る十九日披講有るべし、予参せしめ給うべき由、仰せ下され候なり、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(この所同じつらに廿三人の名あり)袖書に尅限は午の一点たるべきなり、丞相には別紙の折紙を以て之を相触る。
-
『玉勝間』八の巻 まにあはぬ又間にあわぬと云う事も、是れに見えたり。近き世の言には有らず。
-
『玉勝間』七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。
-
『玉勝間』八の巻 はやると云ふ言大鏡に、堀川の摂政のはやり給いし時に、此東三条殿は、御つかさをもとどめられさせ給いて、いとからくおわしましし時に云云、と有り。はやるは、栄ゆる事と聞えたり、今の世に云うとは、やや心ばえことなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る