玉勝間 / 八の巻 続木
同記に、寛喜二年三月七日、兩株八重櫻、(一條殿枝續木)花漸開、永日徒然、令分栽菊苗、(草不憚土用、)と見えたり。續木と云ふ事、此頃も早く有けり。
新字:同記に、寛喜二年三月七日、両株八重桜、(一条殿枝続木)花漸開、永日徒然、令分栽菊苗、(草不憚土用、)と見えたり。続木と云ふ事、此頃も早く有けり。
書き下し
同じ記に、寛喜二年三月七日、両株の八重桜(一条殿の枝の続木)花漸く開く、永日徒然、菊の苗を分け栽えしむ(草は土用を憚らず)、と見えたり。続木と云う事、此頃も早く有けり。
現代語訳
同じ日記(明月記)に「寛喜二年三月七日、二株の八重桜(一条殿の枝を接ぎ木したもの)の花がようやく開いた。日長で所在ないので、菊の苗を株分けして植えさせた(草は土用をはばからない)」と見える。接ぎ木ということは、この頃もすでにあったのである。
解説
接ぎ木が鎌倉時代にすでに行われていたことを、藤原定家の明月記から書き留めた段である。定家は歌人としてだけでなく、庭の草木を愛した人でもあり、日記には花の咲き具合や植木の手入れがしばしば記されている。ここでも、一条殿の八重桜の枝を接いだ桜が咲き、春の長い日に菊の苗を分けて植えさせたとある。注の「草は土用を憚らず」は、土を動かすことを忌む土用の禁忌も草花には及ばないという当時の考えを示すもので、暮らしの習いがうかがえる。宣長自身、桜をこよなく愛し、晩年には山桜の歌を数多く詠み、墓にも山桜を植えるよう遺言した人である。桜の接ぎ木の記事に目がとまったのも、そうした桜への思いと無縁ではなかろう。園芸の技もまた古くからの営みであることを、一行の記録が教えている。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 榊ノ枝松ノ枝を文台とせらるる事明月記に、建永二年三月五日、賀茂の歌合、今日題を給う、七日、雨気有るに依りて、御幸念がる云云、次に舞殿に入御す、御前に円座を敷く、大納言召しに依りて御前に候う、次に歌人を召す、有家歌合を取りて、参上す、敦経榊の枝を持参し、御前に置きて文台と為す、枝の本を御社の方に向け、木の葉の面を以て上と為すべき由仰せ有り、歌合を其の上に置く、云云、上の御社に幸す、次第前の如し、橋殿を以て御所と為す、予召しに依りて歌合を取りて参上す、敦経松の枝を持参し、文台と為すこと前の如し、読み上げ了りて各退下す。
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