玉勝間 / 八の巻 けだしと云ふことば
からぶみに、蓋と云へる字は、おほかた、物をおしはかりて、定めたる處に置けるやうに見ゆるを、萬葉集に、此詞のをりをり有るを考ふれば、からぶみなるとは、意も云ひざまも、やや變りて、もし斯くも有らむか、と云ふ處につかひたり。二の卷に、「いにしへに戀ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴しわがこふるごと、すべても聞えにくきやうなれど、これは、郭公は、古へを戀る鳥と云ふなれば、今鳴つるも、もしはわが如くに、古、を戀て鳴きたるにや有らん、と云ふ意なり。三の卷に、山守はけだし有とも、と有るは、もし山守は有ともなり。同卷に、けだしあはむかも、と有るは、もし逢ふ事も有らんかなり。四の卷に、けだしくもと云へるは、もしもなり。又けだし夢に見えきやと有るは、もしそれ故に夢に見えたるかなり。又けだし門よりかへしなんかもは、もし門より返しやせんなり。集の中なる、いづれも、斯くの如く見て、聞ゆるなり。其中に、十九の卷に、けだしあへむかも、と有る一つは、少したがへるがごと聞ゆめれど、意は、堪へてあられむか、もしは得堪へざらんか、と云へるなり、あへは堪なり。
新字:からぶみに、蓋と云へる字は、おほかた、物をおしはかりて、定めたる処に置けるやうに見ゆるを、万葉集に、此詞のをりをり有るを考ふれば、からぶみなるとは、意も云ひざまも、やや変りて、もし斯くも有らむか、と云ふ処につかひたり。二の巻に、「いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴しわがこふるごと、すべても聞えにくきやうなれど、これは、郭公は、古へを恋る鳥と云ふなれば、今鳴つるも、もしはわが如くに、古、を恋て鳴きたるにや有らん、と云ふ意なり。三の巻に、山守はけだし有とも、と有るは、もし山守は有ともなり。同巻に、けだしあはむかも、と有るは、もし逢ふ事も有らんかなり。四の巻に、けだしくもと云へるは、もしもなり。又けだし夢に見えきやと有るは、もしそれ故に夢に見えたるかなり。又けだし門よりかへしなんかもは、もし門より返しやせんなり。集の中なる、いづれも、斯くの如く見て、聞ゆるなり。其中に、十九の巻に、けだしあへむかも、と有る一つは、少したがへるがごと聞ゆめれど、意は、堪へてあられむか、もしは得堪へざらんか、と云へるなり、あへは堪なり。
書き下し
からぶみに、蓋と云える字は、おおかた、物をおしはかりて、定めたる処に置けるように見ゆるを、万葉集に、此詞のおりおり有るを考うれば、からぶみなるとは、意も云いざまも、やや変りて、もし斯くも有らむか、と云う処につかいたり。二の巻に、いにしえに恋うらむ鳥はほととぎすけだしや鳴しわがこうるごと、すべても聞えにくきようなれど、これは、郭公は、古えを恋る鳥と云うなれば、今鳴つるも、もしはわが如くに、古を恋て鳴きたるにや有らん、と云う意なり。三の巻に、山守はけだし有とも、と有るは、もし山守は有ともなり。同巻に、けだしあわむかも、と有るは、もし逢う事も有らんかなり。四の巻に、けだしくもと云えるは、もしもなり。又けだし夢に見えきやと有るは、もしそれ故に夢に見えたるかなり。又けだし門よりかえしなんかもは、もし門より返しやせんなり。集の中なる、いずれも、斯くの如く見て、聞ゆるなり。其中に、十九の巻に、けだしあえむかも、と有る一つは、少したがえるがごと聞ゆめれど、意は、堪えてあられむか、もしは得堪えざらんか、と云えるなり、あえは堪なり。
現代語訳
漢籍で「蓋(けだし)」という字は、おおかた物事を推し量って断定したところに置いているように見えるが、万葉集にこの言葉がときどきあるのを考えると、漢籍のものとは意味も言い方もやや変わって、「もしかしてこうでもあろうか」というところに使っている。巻二に「いにしえに恋うらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きしわが恋うるごと(昔を恋い慕うという鳥はほととぎすだ。もしかして鳴いたのだろうか、私が恋い慕うように)」とあるのは、全体にも分かりにくいようであるが、これは、ほととぎすは昔を恋う鳥というから、今鳴いたのも、もしかしたら私のように昔を恋うて鳴いたのであろうか、という意味である。巻三に「山守はけだしありとも」とあるのは、もし山守はいたとしても、である。同じ巻に「けだし逢わんかも」とあるのは、もしかして逢うこともあろうか、である。巻四に「けだしくも」と言っているのは「もしも」である。また「けだし夢に見えきや」とあるのは、もしかしてそのために夢に見えたのか、である。また「けだし門より返しなんかも」は、もしかして門から帰してしまうのではないか、である。集の中のものはどれも、このように見て意味が通るのである。その中で巻十九に「けだし堪えんかも」とある一つは少し違うように聞こえるようだが、意味は、堪えていられるだろうか、もしかすると堪えられないだろうか、と言っているのである。「あえ」は「堪(た)え」である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。
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『玉勝間』六の巻 なづさふ万葉集に、なずさうと云う言、あまた所に見えたり。昔より、この詞を解きたる説、皆あたらず。今その歌どもを、あまねく考え合するに、或いは海川などに浮かべること、或いは船より渡る事などに云い、枕詞にも、引網の、鳥じもの、におどりのなど云いて、いずれもいずれも、水に着く事にのみ云えり。水によらぬは一つも無し。集の中の歌どもを、試みて知るべし。その中に、三の巻なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐわし君が、引網のなずさいこむと云云、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他の例をもて思うに、海路を経て帰り来べき国の人なるべし。また九の巻の長歌の反歌に、「いとま有らばなずさいわたり云云、これも海川の事は見えざれども、渡りと云い、長歌にも、滝のうえのと有れば、山川を渡りゆく事なり。この外はみな、海また川などにのみ詠めれば、論無し。然るにこの詞、中昔の物語書などに云えるは、いたく意異にして、馴れ親しむ事に云えり。神楽の歌に、「すめ神の御手にとられてなずさわましを、と有るも然かなり。いかにしてかくまでは移りかわりけん。万葉に云えるとは、いささかも似よれるかた無し。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』八の巻 万葉集に見えたる和気と云ふ称皇子たちなどの御名にある、某別、又姓のかばねの、某の別などの別には有らで、万葉集の歌に、一種の和気と云える称有り。そを人皆、みずからひげして云う称とのみ心得たるは、くわしからず。常に打まかせてひげして、僕など云うとは異にして、これは、人より我をさして云う詞をもうけて、そを其人に云い遣るとて、殊さらに我を賤きさまに云いなす称なり。さるはすこしたわぶれたる物にて、まことのひげには有らず。四の巻に、わが君は和気をば死ねと思えかも云云、これ人の我を死ねと思うと云う事を、もうけて、云い遣るなり。さて我を賤しめて云うから、人をば吾妹子と云うべきを、殊更にあがめたるさまに、わが君と云えるも、少したわぶれなり。同じ巻に、黒木とりかやもかりつつつかえめどいそしき和気とほめむともあらず、これも同じ事にて、人の我をいそしき者と云わむ詞を、もうけて云いやるなり。
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『玉勝間』八の巻 郭公にをちかへりとよむ言又常に郭公の歌に、をちかえり鳴と詠むも、本の所へ又かえり来て鳴くを云うなり。此詞の意、右の歌どもを引合せて、互いにあい照らして知るべし。
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