玉勝間 / 六の巻 なづさふ
萬葉集に、なづさふと云ふ言、あまた所に見えたり。昔より、此詞を解きたる說、皆あたらず。今その歌どもを、あまねく考へ合するに、或は海川などに浮べること、或は船より渡る事などに云ひ、枕詞にも、引網の、鳥じもの、にほどりのなど云ひて、いづれもいづれも、水に着く事にのみ云へり。水によらぬは一つも無し。集の中の歌共を、試みて知るべし。其中に、三の卷なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐはし君が、引網のなづさひこむと云云、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他の例をもて思ふに、海路を經て歸り來べき國の人なるべし。又九の卷の長歌の反歌に、「いとま有らばなづさひわたり云云、これも海川の事は見えざれども、渡りと云ひ、長歌にも、瀧のうへのと有れば、山川を渡りゆく事なり。此外はみな、海又川などにのみ詠めれば、論無し。然るに此詞、中昔の物語書などに云へるは、いたく意異にして、馴れ親しむ事に云へり。神樂の歌に、「すめ神の御手にとられてなづさはましを、と有るも然かなり。いかにして斯くまでは移りかはりけん。萬葉に云へるとは、いささかも似よれるかた無し。
新字:万葉集に、なづさふと云ふ言、あまた所に見えたり。昔より、此詞を解きたる説、皆あたらず。今その歌どもを、あまねく考へ合するに、或は海川などに浮べること、或は船より渡る事などに云ひ、枕詞にも、引網の、鳥じもの、にほどりのなど云ひて、いづれもいづれも、水に着く事にのみ云へり。水によらぬは一つも無し。集の中の歌共を、試みて知るべし。其中に、三の巻なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐはし君が、引網のなづさひこむと云云、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他の例をもて思ふに、海路を経て帰り来べき国の人なるべし。又九の巻の長歌の反歌に、「いとま有らばなづさひわたり云云、これも海川の事は見えざれども、渡りと云ひ、長歌にも、滝のうへのと有れば、山川を渡りゆく事なり。此外はみな、海又川などにのみ詠めれば、論無し。然るに此詞、中昔の物語書などに云へるは、いたく意異にして、馴れ親しむ事に云へり。神楽の歌に、「すめ神の御手にとられてなづさはましを、と有るも然かなり。いかにして斯くまでは移りかはりけん。万葉に云へるとは、いささかも似よれるかた無し。
書き下し
万葉集に、なずさうと云う言、あまた所に見えたり。昔より、この詞を解きたる説、皆あたらず。今その歌どもを、あまねく考え合するに、或いは海川などに浮かべること、或いは船より渡る事などに云い、枕詞にも、引網の、鳥じもの、におどりのなど云いて、いずれもいずれも、水に着く事にのみ云えり。水によらぬは一つも無し。集の中の歌どもを、試みて知るべし。その中に、三の巻なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐわし君が、引網のなずさいこむと云云、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他の例をもて思うに、海路を経て帰り来べき国の人なるべし。また九の巻の長歌の反歌に、「いとま有らばなずさいわたり云云、これも海川の事は見えざれども、渡りと云い、長歌にも、滝のうえのと有れば、山川を渡りゆく事なり。この外はみな、海また川などにのみ詠めれば、論無し。然るにこの詞、中昔の物語書などに云えるは、いたく意異にして、馴れ親しむ事に云えり。神楽の歌に、「すめ神の御手にとられてなずさわましを、と有るも然かなり。いかにしてかくまでは移りかわりけん。万葉に云えるとは、いささかも似よれるかた無し。
現代語訳
万葉集に「なづさう」という言葉があちこちに見える。昔からこの言葉を解釈した説は、みな当たっていない。今その歌々をあまねく考え合わせると、あるいは海や川などに浮かぶこと、あるいは船で渡ることなどに言い、枕詞としても「引網の」「鳥じもの」「にほどりの」などと言って、どれもどれも水に関わることにだけ言っている。水によらないものは一つもない。集の中の歌々を試してみて知るがよい。その中で、巻三の長歌に「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐわし君が、引網のなづさい来むと(いつの年月に、つつじの花のように美しいあなたが、引網のように水をかき分けて帰って来るのだろうか)」云々とあるのは、上にも下にも海や川のことは見えないけれども、他の例から思うと、海路を経て帰って来るはずの国の人なのであろう。また巻九の長歌の反歌に「いとま有らばなづさいわたり(暇があれば水をかき分けて渡り)」云々とあるのも、海や川のことは見えないが、「渡り」と言い、長歌にも「滝の上の」とあるので、山川を渡ってゆくことである。このほかはみな海または川などにだけ詠んでいるので、論ずるまでもない。ところがこの言葉は、中古の物語の書などで言っているのは、たいそう意味が違っていて、馴れ親しむことに言っている。神楽歌に「すめ神の御手にとられてなづさわましを(尊い神の御手に取られて、馴れ親しみたいものを)」とあるのもそうである。どうしてこれほどまで移り変わったのだろうか。万葉集で言っているのとは、少しも似通ったところがない。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十の巻 なごり六帖に、「うつくしと見るたびごとになでしこの花のなごりは惜しくやはあらぬ。このなごりは、近き世に云うなごりの意に聞えたり。
-
『玉勝間』十四の巻 又たとへ歌のやうたとえ歌、古今集よりこなたのはその歌を見れば、譬えたる意あらわに知らるるように詠みたる物なり。然るに、万葉集なるは、その事にあたりて、その詠みたる人は、譬えたる心を知るべけれど、後にその歌を見たるのみにては、たとえたる意はこまかには知れ難きが多し。されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、確かには云いがたき歌おおし。その心してとくべきなり。又万葉のたとえ歌は、その譬えたる草木鳥虫のうえの詞と、ただに恋のうえを云える詞とを、あいまじえて詠める多し。これ又心得おくべし。
-
『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
-
『玉勝間』八の巻 けだしと云ふことばからぶみに、蓋と云える字は、おおかた、物をおしはかりて、定めたる処に置けるように見ゆるを、万葉集に、此詞のおりおり有るを考うれば、からぶみなるとは、意も云いざまも、やや変りて、もし斯くも有らむか、と云う処につかいたり。二の巻に、いにしえに恋うらむ鳥はほととぎすけだしや鳴しわがこうるごと、すべても聞えにくきようなれど、これは、郭公は、古えを恋る鳥と云うなれば、今鳴つるも、もしはわが如くに、古を恋て鳴きたるにや有らん、と云う意なり。三の巻に、山守はけだし有とも、と有るは、もし山守は有ともなり。同巻に、けだしあわむかも、と有るは、もし逢う事も有らんかなり。四の巻に、けだしくもと云えるは、もしもなり。又けだし夢に見えきやと有るは、もしそれ故に夢に見えたるかなり。又けだし門よりかえしなんかもは、もし門より返しやせんなり。集の中なる、いずれも、斯くの如く見て、聞ゆるなり。其中に、十九の巻に、けだしあえむかも、と有る一つは、少したがえるがごと聞ゆめれど、意は、堪えてあられむか、もしは得堪えざらんか、と云えるなり、あえは堪なり。
-
『玉勝間』十二の巻 つつみなく又つつがなくと云ふ言同じ集六に、草管見身疾不有とよめる、草と云えるは、かのから書の草居云云の説によれるか、と思う人もあんめれど、然にはあらず。この草の字は、莫を誤れるにて、これもつつみなくなるをや。さてつつみと云う言の意は、大祓の後釈に云えれば、ここにはもらしつ。
-
『玉勝間』十三の巻 万葉集に山ノ字を玉に誤れる例万葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、「三吉野の玉松が枝は」云云、十五の巻に、やままつかげにともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、この歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云うことは、有る事無し。又同じ二の巻に、「人はよし思いやむとも玉かずら影に見えつつ」云云、こは山かずらは、日かげかずらのことにて、影の枕詞に置けるなり。山かずら日かげとつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かずらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かずらかげと有り、みなかげは日かげのかずらの事なり。然るを後の世に、この玉かずらを、山かずらの誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、「斎串立て」云云「雲聚の玉蔭見ればともしも」、こはうずに垂れたる日かげのかずらなり。十六の巻に、「あしひきの玉かずらの児」とあるは、あしひきのとあれば、山なること論無し。即ち「玉久世の清き河原」云云と云う歌も、ならべる歌には、山かずらの児とあり。さて件の例どもによりて思えば、十一の巻に、山代の久世の河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云うことは、有るべくも覚えず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る