玉勝間 / 八の巻 もろこしの国に丙吉と云ひし人の事
又もとより陰陽をととのふなど云ふ事、有るべくも有らず。すべて世の中の事は、時時の天地のあるやうも何も、みな神の御しわざにて、時の氣のかなひかなはぬなど、さらに人の知るべきわざには有らぬを、斯くことごとしげに、云ひなすは、すべてかの國人のならひにて、いといとこちたく、うるさきわざなりかし。
新字:又もとより陰陽をととのふなど云ふ事、有るべくも有らず。すべて世の中の事は、時時の天地のあるやうも何も、みな神の御しわざにて、時の気のかなひかなはぬなど、さらに人の知るべきわざには有らぬを、斯くことごとしげに、云ひなすは、すべてかの国人のならひにて、いといとこちたく、うるさきわざなりかし。
書き下し
又もとより陰陽をととのうなど云う事、有るべくも有らず。すべて世の中の事は、時々の天地のあるようも何も、みな神の御しわざにて、時の気のかないかなわぬなど、さらに人の知るべきわざには有らぬを、斯くことごとしげに、云いなすは、すべてかの国人のならいにて、いといとこちたく、うるさきわざなりかし。
現代語訳
またそもそも陰陽を調えるなどということは、ありうるはずもない。すべて世の中の事は、その時々の天地のありさまも何もかも、みな神の御しわざであって、時節の気候が合う合わないなどということは、まったく人の知ることのできるものではないのに、このように仰々しく言い立てるのは、すべてあの国の人の習いであって、まことに大げさでうっとうしいことなのだ。
解説
前段の丙吉の話に続けて、そもそも「陰陽を調える」という発想そのものを否定した段である。儒学には、為政者の徳が天地の陰陽の調和を左右し、天候の異変は政治の乱れの表れだとする天人相関の考え方がある。宰相の職分を陰陽を調えることとするのもそのためである。宣長はこれを真っ向から退け、天地のありさまはすべて神の御しわざであって、人が知ることも調えることもできないとする。人の理屈で天地を説明し尽くせると考えることこそ、宣長の言う漢意のさかしらであった。ここには、人知の限界を認め、分からないことは神の領分に委ねるという宣長の信仰が表れている。自然を神のわざと見る点は時代の考え方だが、人の理屈で何でも説明したがる傲りを戒める指摘としては、今も鋭さを失っていない。
関連する章句
-
『玉勝間』十四の巻 世の中の万の事は皆神の御しわざなる事世の中の万ずの事はみなあやしきを、これ奇しく妙なる神の御しわざなる事をえ知らずして、己がおしはかりの理を以て云うはいとおこなり。いかにとも知られぬ事を理を以てとかく云うは、から人のくせなり。その云う所の理は、いかさまにも云えばいわるる物ぞ。かれ古えのから人の云いおける理、後世にいたりてひがことなる事のあらわれたる事多し。またついに理のはかり難き事にあえば、これを天と云いてのがるる、皆神ある事を知らざる故なり。
-
『玉勝間』一の巻 漢意漢国には、おおよそ人の禍福、国の治乱など、すべて世の中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道・天命・天理など云いて、これをうえなく尊く畏るべき物とぞすなる。さるはすべて漢国には、まことの道伝わらずして、万の事はみな、神の御心御しわざなる事をえ知らざるが故に、みだりに造りもうけて云えるものなり。そもそも天は、ただ天つ神たちのまします御国のみにこそ有れ、心ある物にあらざれば、天命など云うこと有るべくもあらず。神を尊み畏れずして、天を尊み畏るるは、たとえば、いたづらに宮殿をのみ尊みおそれて、その君を尊み畏るる事を知らざるが如し。然れども、外国には、万は神の御しわざなる事をえ知らざれば、この天道・天理の説を信じ居らむも、さる事なるを、皇国には、まことの道の正しき伝えの有りながら、それをば尋ね思わずして、ただ外国のみだりなる説をのみ信じて、天と云う事を、いみじき事に心得居て、万の事に、その理をのみ云うは、いかにぞや。また太極・無極・陰陽・乾坤・八卦・五行など、ことごとしくこちたく云うなる事共も、ただ漢国人のわたくしの造説にて、まことにはその理とては有る事無し。
-
『直毘霊』天地のことわりは神の御所為そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所為にして、いともいとも妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきわめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいえる言をば、何ごともただ理の至極と、信じたっとみおるこそいと愚なれ。
-
『玉勝間』一の巻 又漢国にも、神あることを、むげに知らざるにもあらず、尊みもし祀りもすめるは、まことの伝えの、かたはしは有りしならむ。然れどもこの天地をはじめ給い、国土万の物を造りなし給い、人の道をも万の事をも始め給い、世の中のよろづの事をしり行い給う神たちのまします事をば、すべてえ知らずして、これらの重く大きなる事には、ただ天をのみ云いて、ただかたわらなる小さき事にのみ、神をば云いて、この世を照らし給う日の大御神をすら、かろがろしく、ことなる事も無き物の如くして、この神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだに知らざるは、いとあさましきわざなりかし。
-
『玉勝間』十四の巻 天から人の、何につけても天天と云うは、神有る事を知らざる故のひがことなり。天は、ただ神のまします国にこそ有れ。心も、行いも、道も、何も、有る物にはあらず。いわゆる天命、天道など云うは、みな神のなし給う事にこそ有れ。又天地は、万物を生育する物と思うもひがことなり。万物の生育するも、みな神の御しわざなり。天地は、ただ神のこれを生育し給う場所のみなり。天地のこれを生育するにはあらず。から人の云わく、天聖人に命じて、暴を征伐して、民を安ぜしむと云えり。然らば、天のしわざは、正しき物にして、ひがことは無き物と聞こえたるに、世の中には、理にたがいたる事の多きはいかに。その理にたがいたる事あれども、ただ天の命なればせんかた無しとのみ云いて、その天のひがことするをば、とがめざるはいとおかし。天もひがことするならば、かの聖人に命じて、君を亡ぼして、天下をとらせたるも、天のひがことと云うべし。
-
『直毘霊』吉凶き万事は神の御所為古の大御代に、その道を借らずて、いとよく治まりしを思え。そもそもこの天地の間に、有りとある事は、悉皆に神の御心なる中に。およそこの世の中の事は、春秋の行き変わり、雨降り風吹くたぐい、また国の上人の上の、吉凶き万事、みなことごとに神の御所為なり。さて神には、善きもあり悪しきもありて、所行もそれに従うなれば、大方尋常の理をもては、測りがたきわざなりかし。然るを世人、賢きも愚かなるもおしなべて、外国の道々の説にのみ惑い果てて、この意をえ知らず。皇国の学問する人などは、古書を見て、必ず知るべきわざなるを、さる人どもだに、え弁え知らざるは、いかにぞや。抑吉凶き万の事を、あだし国にて、仏の道には因果とし、漢の道々には天命と言いて、天のなすわざと思えり。これらみな僻事なり。そが中に仏道の説は、多く世の学者の、よく弁えつることなれば、今言わず。漢国の天命の説は、賢き人もみな惑いて、いまだ僻事なることを悟れる人なければ、今これを論い悟さむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る