玉勝間 / 一の巻 漢意
漢國には、おほよそ人の禍福、國の治亂など、すべて世ノ中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理など云ひて、これをうへなく尊く畏るべき物とぞすなる。さるはすべて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなる事をえ知らざるが故に、みだりに造りまうけて云へるものなり。そもそも天は、唯だ天つ神たちのまします御國のみにこそ有れ、心ある物にあらざれば、天命など云ふこと有るべくもあらず。神を尊み畏れずして、天を尊み畏るるは、たとへば、いたづらに宮殿をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るる事を知らざるが如し。然れ共、外ッ國には、萬は神の御しわざなる事をえ知らざれば、此天道天理の說を信じ居らむも、さる事なるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有りながら、それをば尋ね思はずして、唯だ外ッ國のみだりなる說をのみ信じて、天と云ふ事を、いみじき事に心得居て、萬の事に、その理リをのみ云ふは、いかにぞや。又太極無極陰陽乾坤八封五行など、ことごとしくこちたく云ふなる事共も、唯だ漢國人のわたくしの造說にて、まことには其理とては有る事無し。
新字:漢国には、おほよそ人の禍福、国の治乱など、すべて世ノ中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理など云ひて、これをうへなく尊く畏るべき物とぞすなる。さるはすべて漢国には、まことの道伝はらずして、万の事はみな、神の御心御しわざなる事をえ知らざるが故に、みだりに造りまうけて云へるものなり。そもそも天は、唯だ天つ神たちのまします御国のみにこそ有れ、心ある物にあらざれば、天命など云ふこと有るべくもあらず。神を尊み畏れずして、天を尊み畏るるは、たとへば、いたづらに宮殿をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るる事を知らざるが如し。然れ共、外ッ国には、万は神の御しわざなる事をえ知らざれば、此天道天理の説を信じ居らむも、さる事なるを、皇国には、まことの道の正しき伝への有りながら、それをば尋ね思はずして、唯だ外ッ国のみだりなる説をのみ信じて、天と云ふ事を、いみじき事に心得居て、万の事に、その理リをのみ云ふは、いかにぞや。又太極無極陰陽乾坤八封五行など、ことごとしくこちたく云ふなる事共も、唯だ漢国人のわたくしの造説にて、まことには其理とては有る事無し。
書き下し
漢国には、おおよそ人の禍福、国の治乱など、すべて世の中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道・天命・天理など云いて、これをうえなく尊く畏るべき物とぞすなる。さるはすべて漢国には、まことの道伝わらずして、万の事はみな、神の御心御しわざなる事をえ知らざるが故に、みだりに造りもうけて云えるものなり。そもそも天は、ただ天つ神たちのまします御国のみにこそ有れ、心ある物にあらざれば、天命など云うこと有るべくもあらず。神を尊み畏れずして、天を尊み畏るるは、たとえば、いたづらに宮殿をのみ尊みおそれて、その君を尊み畏るる事を知らざるが如し。然れども、外国には、万は神の御しわざなる事をえ知らざれば、この天道・天理の説を信じ居らむも、さる事なるを、皇国には、まことの道の正しき伝えの有りながら、それをば尋ね思わずして、ただ外国のみだりなる説をのみ信じて、天と云う事を、いみじき事に心得居て、万の事に、その理をのみ云うは、いかにぞや。また太極・無極・陰陽・乾坤・八卦・五行など、ことごとしくこちたく云うなる事共も、ただ漢国人のわたくしの造説にて、まことにはその理とては有る事無し。
現代語訳
中国では、おおよそ人の禍福や国の治乱など、すべて世の中の万事は、みな天がなすこととして、天道・天命・天理などと言って、これをこの上なく尊く畏るべきものとしている。それはすべて中国にはまことの道が伝わらず、万事はみな神の御心と御しわざであることを知らないために、むやみに作り設けて言ったものである。そもそも天は、ただ天つ神たちのおられる御国であるだけで、心のあるものではないから、天命などということがあるはずもない。神を尊び畏れずに天を尊び畏れるのは、たとえば、むやみに宮殿ばかりを尊び畏れて、その主君を尊び畏れることを知らないようなものである。けれども外国では、万事が神の御しわざであることを知らないので、この天道・天理の説を信じているのも無理はないが、わが国にはまことの道の正しい伝えがありながら、それを尋ね思わずに、ただ外国のでたらめな説ばかりを信じて、天というものを大したものと心得て、万事にその理ばかりを言うのは、どういうことか。また太極・無極・陰陽・乾坤・八卦・五行など、仰々しく煩わしく言うことどもも、ただ中国人の勝手な作り説であって、本当はそのような理などは存在しない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 天から人の、何につけても天天と云うは、神有る事を知らざる故のひがことなり。天は、ただ神のまします国にこそ有れ。心も、行いも、道も、何も、有る物にはあらず。いわゆる天命、天道など云うは、みな神のなし給う事にこそ有れ。又天地は、万物を生育する物と思うもひがことなり。万物の生育するも、みな神の御しわざなり。天地は、ただ神のこれを生育し給う場所のみなり。天地のこれを生育するにはあらず。から人の云わく、天聖人に命じて、暴を征伐して、民を安ぜしむと云えり。然らば、天のしわざは、正しき物にして、ひがことは無き物と聞こえたるに、世の中には、理にたがいたる事の多きはいかに。その理にたがいたる事あれども、ただ天の命なればせんかた無しとのみ云いて、その天のひがことするをば、とがめざるはいとおかし。天もひがことするならば、かの聖人に命じて、君を亡ぼして、天下をとらせたるも、天のひがことと云うべし。
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『玉勝間』一の巻 又漢国にも、神あることを、むげに知らざるにもあらず、尊みもし祀りもすめるは、まことの伝えの、かたはしは有りしならむ。然れどもこの天地をはじめ給い、国土万の物を造りなし給い、人の道をも万の事をも始め給い、世の中のよろづの事をしり行い給う神たちのまします事をば、すべてえ知らずして、これらの重く大きなる事には、ただ天をのみ云いて、ただかたわらなる小さき事にのみ、神をば云いて、この世を照らし給う日の大御神をすら、かろがろしく、ことなる事も無き物の如くして、この神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだに知らざるは、いとあさましきわざなりかし。
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『玉勝間』十四の巻 世の中の万の事は皆神の御しわざなる事世の中の万ずの事はみなあやしきを、これ奇しく妙なる神の御しわざなる事をえ知らずして、己がおしはかりの理を以て云うはいとおこなり。いかにとも知られぬ事を理を以てとかく云うは、から人のくせなり。その云う所の理は、いかさまにも云えばいわるる物ぞ。かれ古えのから人の云いおける理、後世にいたりてひがことなる事のあらわれたる事多し。またついに理のはかり難き事にあえば、これを天と云いてのがるる、皆神ある事を知らざる故なり。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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『玉勝間』八の巻 もろこしの国に丙吉と云ひし人の事又もとより陰陽をととのうなど云う事、有るべくも有らず。すべて世の中の事は、時々の天地のあるようも何も、みな神の御しわざにて、時の気のかないかなわぬなど、さらに人の知るべきわざには有らぬを、斯くことごとしげに、云いなすは、すべてかの国人のならいにて、いといとこちたく、うるさきわざなりかし。
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『直毘霊』吉凶き万事は神の御所為古の大御代に、その道を借らずて、いとよく治まりしを思え。そもそもこの天地の間に、有りとある事は、悉皆に神の御心なる中に。およそこの世の中の事は、春秋の行き変わり、雨降り風吹くたぐい、また国の上人の上の、吉凶き万事、みなことごとに神の御所為なり。さて神には、善きもあり悪しきもありて、所行もそれに従うなれば、大方尋常の理をもては、測りがたきわざなりかし。然るを世人、賢きも愚かなるもおしなべて、外国の道々の説にのみ惑い果てて、この意をえ知らず。皇国の学問する人などは、古書を見て、必ず知るべきわざなるを、さる人どもだに、え弁え知らざるは、いかにぞや。抑吉凶き万の事を、あだし国にて、仏の道には因果とし、漢の道々には天命と言いて、天のなすわざと思えり。これらみな僻事なり。そが中に仏道の説は、多く世の学者の、よく弁えつることなれば、今言わず。漢国の天命の説は、賢き人もみな惑いて、いまだ僻事なることを悟れる人なければ、今これを論い悟さむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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