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直毘霊 / 天地のことわりは神の御所為

そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所爲にして、いともいとも妙に奇しく、靈しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいへる言をば、何ごともただ理の至極と、信たふとみをるこそいと愚なれ。

新字:そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所為にして、いともいとも妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいへる言をば、何ごともただ理の至極と、信たふとみをるこそいと愚なれ。

書き下し

そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所為にして、いともいとも妙に奇しく、霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智りもては、測りがたきわざなるを、いかでかよくきわめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいえる言をば、何ごともただ理の至極と、信じたっとみおるこそいと愚なれ。

現代語訳

そもそも天地の理は、すべて神のなさることであって、この上なく妙で不思議で、霊妙なものなのだから、限りのある人間の知恵では測りようがない。それをどうして究め尽くして知ることができようか。それなのに、聖人の言った言葉なら何でも理の極みだとして、信じて尊んでいるのは、まったく愚かなことである。

解説

人の知恵には限界がある、という一点から、宣長は易をはじめとする体系的な説明の全体を退ける。天地の理は神のわざであって測れない。測れないものを究め尽くしたと称する説を、理の極みとして信じるのは愚かだ、と。彼はこの前段で、易も世人を手なずけるための謀り事だと言い切っている。理屈で万事を割り切ろうとする態度そのものへの批判で、宣長はそれを「漢意」と呼んだ。ここは彼の学問の方法とも直結している。分からないことを分からないままに、古い伝えのとおりに受け取る。それが古事記伝の姿勢だった。

この章句が説くこと

天地のことわり人のかぎりある智り理の至極漢意

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

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