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玉勝間 / 八の巻 万葉集に多太加と云ふ詞と麻佐加と云ふ詞との事

萬葉に見えたる、多太加と云ふ言と、麻佐加と云ふ言と、紛らはしきが如し、されど此けぢめは、その言の續きざま、歌の意にていとよく分れて、まぎるる事は無きを、今の本、訓を誤れる所有るによりて、まぎらはしきやうに思ふめり。そはまづ多太加の方は、君之直香、公之正香、吉美賀多太可、妹之直香、妹之正香など有て、此外の云ひざまは無し。麻佐加の方は、眞坂者君爾緣西物乎、また何時之眞坂毛常不所忘、また麻佐香毛可奈思、また麻左可思余加婆、また伊末能麻左可母など有て、多太加とは、云ひざまいたく異なり。然るをかの正香と書るを、誤りて麻佐加と訓るから、紛らはしきなり。正香は、麻佐加にあらず、多太加なること、云ひざまの例をもてわきまふべし。さて多太加とは、君また妹を、直にさし當てて云へる言にて、君妹とのみ言ふも、同じ事に聞ゆるなり。麻佐加とは、行末に對へて、今さしあたりたる時を云へり。集中によめる歌どもを、考へわたして知べし、其中に、由理と云ふに對へて云へる有リ、由理も、後と云ふ意にて、今に對ひたる言なり。さて今の俗言に、まさかの時と云ふ言あるも、此まさかにて、意の轉り變りたるなり。

新字:万葉に見えたる、多太加と云ふ言と、麻佐加と云ふ言と、紛らはしきが如し、されど此けぢめは、その言の続きざま、歌の意にていとよく分れて、まぎるる事は無きを、今の本、訓を誤れる所有るによりて、まぎらはしきやうに思ふめり。そはまづ多太加の方は、君之直香、公之正香、吉美賀多太可、妹之直香、妹之正香など有て、此外の云ひざまは無し。麻佐加の方は、真坂者君爾縁西物乎、また何時之真坂毛常不所忘、また麻佐香毛可奈思、また麻左可思余加婆、また伊末能麻左可母など有て、多太加とは、云ひざまいたく異なり。然るをかの正香と書るを、誤りて麻佐加と訓るから、紛らはしきなり。正香は、麻佐加にあらず、多太加なること、云ひざまの例をもてわきまふべし。さて多太加とは、君また妹を、直にさし当てて云へる言にて、君妹とのみ言ふも、同じ事に聞ゆるなり。麻佐加とは、行末に対へて、今さしあたりたる時を云へり。集中によめる歌どもを、考へわたして知べし、其中に、由理と云ふに対へて云へる有リ、由理も、後と云ふ意にて、今に対ひたる言なり。さて今の俗言に、まさかの時と云ふ言あるも、此まさかにて、意の転り変りたるなり。

書き下し

万葉に見えたる、多太加と云う言と、麻佐加と云う言と、紛らわしきが如し、されど此けじめは、その言の続きざま、歌の意にていとよく分れて、まぎるる事は無きを、今の本、訓を誤れる所有るによりて、まぎらわしきように思うめり。そはまず多太加の方は、君之直香、公之正香、吉美賀多太可、妹之直香、妹之正香など有りて、此外の云いざまは無し。麻佐加の方は、真坂者君爾縁西物乎、また何時之真坂毛常不所忘、また麻佐香毛可奈思、また麻左可思余加婆、また伊末能麻左可母など有りて、多太加とは、云いざまいたく異なり。然るをかの正香と書るを、誤りて麻佐加と訓るから、紛らわしきなり。正香は、麻佐加にあらず、多太加なること、云いざまの例をもてわきまうべし。さて多太加とは、君また妹を、直にさし当てて云える言にて、君妹とのみ言うも、同じ事に聞ゆるなり。麻佐加とは、行末に対えて、今さしあたりたる時を云えり。集中によめる歌どもを、考えわたして知べし、其中に、由理と云うに対えて云える有り、由理も、後と云う意にて、今に対いたる言なり。さて今の俗言に、まさかの時と云う言あるも、此まさかにて、意の転り変りたるなり。

現代語訳

万葉集に見える「ただか」という言葉と「まさか」という言葉とは、紛らわしいように見える。しかしこの区別は、その言葉の続き方や歌の意味によってはっきり分かれていて、紛れることはないのだが、今の刊本が訓を誤っている所があるために、紛らわしいように思っているようだ。それはまず「ただか」のほうは、「君之直香(きみがただか)」「公之正香」「吉美賀多太可」「妹之直香(いもがただか)」「妹之正香」などとあって、このほかの言い方はない。「まさか」のほうは、「真坂者君爾縁西物乎(まさかは君に寄りにしものを)」、また「何時之真坂毛常不所忘(いつのまさかも常忘らえず)」、また「麻佐香毛可奈思(まさかもかなし)」、また「麻左可思余加婆(まさかしよかば)」、また「伊末能麻左可母(いまのまさかも)」などとあって、「ただか」とは言い方がひどく異なる。それなのにあの「正香」と書いたのを誤って「まさか」と訓んだために紛らわしいのである。「正香」は「まさか」ではなく「ただか」であることを、言い方の例によってわきまえるべきである。さて「ただか」とは、君や妹を直接に指して言う言葉で、「君」「妹」とだけ言うのと同じことに聞こえるのである。「まさか」とは、行く末に対して、今さしあたっている時を言っている。集中に詠んだ歌々を考え渡して知るべきである。その中に「ゆり」というのに対して言ったものがあるが、「ゆり」も「後」という意味で、「今」に対する言葉である。さて今の俗語に「まさかの時」という言葉があるのも、この「まさか」であって、意味が移り変わったのである。

解説

万葉集の「ただか」と「まさか」という紛らわしい二語を、言い回しの型から見分けた段である。「ただか」は常に「君が」「妹が」の後に来て、相手その人を直接に指す。一方「まさか」は「いまのまさか」のように、行く末に対する「今この時」を言う。二つは続き方がまるで違うのに混同されたのは、刊本が「正香」を「まさか」と誤って訓んだためだと宣長は見る。「正」の字面に引かれず、語が現れる文型の一貫性から読みを決めるのは、用例を網羅して比べる宣長ならではの方法である。さらに、今の俗語の「まさかの時」も万葉の「まさか」の意味が移ったものだと指摘する。「目の前のこの時」が、やがて「万一の差し迫った時」の意になったというのである。千年を隔てた俗語と古語をつなぐ見方は、今使っている言葉の奥行きに気づかせてくれる。

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