玉勝間 / 三の巻 とかたと云ふ詞
童蒙抄に、山家ノ冬ノ夜と云ふこころを、經信卿、「山里は夜床さえつつ明にけりとかたぞかねの音のすなるは、これいづかたぞと云ふべきを、とかたぞと詠めり、いかがとあり。今の世の言に、いづくを、どこと云ひ、いづれをどれ、いづち又いづかたを、どちと云ふは、此とかたのとにやあらん。
新字:童蒙抄に、山家ノ冬ノ夜と云ふこころを、経信卿、「山里は夜床さえつつ明にけりとかたぞかねの音のすなるは、これいづかたぞと云ふべきを、とかたぞと詠めり、いかがとあり。今の世の言に、いづくを、どこと云ひ、いづれをどれ、いづち又いづかたを、どちと云ふは、此とかたのとにやあらん。
書き下し
童蒙抄に、山家の冬の夜と云うこころを、経信卿、「山里は夜床さえつつ明にけりとかたぞかねの音のすなるは、これいずかたぞと云うべきを、とかたぞと詠めり、いかがとあり。今の世の言に、いずくを、どこと云い、いずれをどれ、いずちまたいずかたを、どちと云うは、此とかたのとにやあらん。
現代語訳
『和歌童蒙抄』に、「山家の冬の夜」という題の心を、経信卿(源経信)が「山里は寝床が冷えきったまま夜が明けたことだ。とかたで鐘の音がするのは」と詠んだのについて、「これは『いずかた(どちら)ぞ』と言うべきところを『とかたぞ』と詠んでいる。いかがなものか」とある。今の世の言葉で、「いずく」を「どこ」と言い、「いずれ」を「どれ」、「いずち」また「いずかた」を「どち」と言うのは、この「とかた」の「と」なのであろうか。
解説
平安後期の歌人源経信の歌に出る「とかた」という語について、歌学書の『和歌童蒙抄』は「いずかた」と言うべきところだと疑問を呈している。宣長はこれを受けて、当時の話し言葉の「どこ」「どれ」「どち」の「ど」は、この「とかた」の「と」と同じものではないか、と考える。古い歌の一語と、目の前の俗語とを結び付けて見るのが宣長らしい。俗語は古語が崩れたものとして軽んじられがちだが、宣長はむしろ、今の口語の中に古い言葉の痕跡が生きていると考え、方言や俗語を古語研究の手がかりとして大切にした。この後の段でも、美濃や伊勢の言葉を引いて古語を説明する例が出てくる。日常語を研究の資料と見る目の広さが、宣長の言語研究を豊かにしている。
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