玉勝間 / 八の巻 ひんがしみんなみ
又南をミンナミと云ふも、ひが事なり、是れもヒンガシにならひて、みだりにンを添へたるなり、ヒンガシは、もとよりヒムカシなれば、そのムを、例の音便にンと云ひ、ンにひかれて、その下のカを濁るも例なり。然るにミナミは、ミンナミと云ふべき由無し。そもそも音便にて、ンを添へて云ふ言も、多かれど、此マンナ、ミンナミは、其例にはあらで、カンナ、ヒンガシにならひたる、みだりごとなりかし。
書き下し
又南をミンナミと云うも、ひが事なり、是れもヒンガシにならいて、みだりにンを添えたるなり、ヒンガシは、もとよりヒムカシなれば、そのムを、例の音便にンと云い、ンにひかれて、その下のカを濁るも例なり。然るにミナミは、ミンナミと云うべき由無し。そもそも音便にて、ンを添えて云う言も、多かれど、此マンナ、ミンナミは、其例にはあらで、カンナ、ヒンガシにならいたる、みだりごとなりかし。
現代語訳
また南を「ミンナミ」と言うのも誤りである。これも「ヒンガシ」にならって、むやみに「ン」を添えたのである。「ヒンガシ」は、もともと「ヒムカシ」であるから、その「ム」を例の音便で「ン」と言い、「ン」に引かれてその下の「カ」を濁るのも通例である。ところが「ミナミ」は、「ミンナミ」と言うべき理由がない。そもそも音便で「ン」を添えて言う言葉も多いけれども、この「マンナ」「ミンナミ」はその例ではなく、「カンナ」「ヒンガシ」にならった、でたらめなのだ。
解説
前段の「まんな」と対になる考証で、「みんなみ」も「ひんがし」に引かれた誤りだとする。東の古語「ひむかし」は日に向かう方角の意とされ、その「む」が音便で「ん」となり、続く「か」が濁って「ひんがし」になった。これは音の変化の決まりにかなっている。しかし「みなみ」にはもともと「む」も「り」もないので、「ん」が入る理由がない。東と南、仮名と真名のように対になる言葉では、一方の形に他方がそろえられてしまうことがある。宣長はそれを「ならいたる、みだりごと」と呼び、決まりにかなった音便と、類推による誤りとを厳しく分ける。古語の研究で宣長が重んじたのは、なんとなくの響きではなく、音の変化の規則であった。対になる言葉が似た形にそろっていく現象は今の言葉にも見られ、言葉の変わり方を考える手がかりになる。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 かんなまんな仮字をカンナとは云うべし、真字をマンナと云えるは、ひがことなり。仮字は、もとカリナなれば、そのリを音便にンと云いて、カンナとは云うなるを、真字は、マンナと云うべきことわり無し、そはカンナにならいて、ゆくりなく、同じさまにンを添えたる物なり。
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『玉勝間』一の巻 音便の事古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり。後の世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつ見えそめて、世々をふるままに、ようように多くなれり。そは漢字三音考の末に云える如く、おのづから定まり有りて、もろもろの音便五くさを出でず。抑この音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などを読むには、一つもまじう可きにあらざるを、後の世の物知り人、その本の語をわきまえずして、世のつねに云いなれたる音便のままに読むは、なおざりなる事なり。すべて後の世には、音便の言いといと多くして、まどいやすし。本の語をよく考えて、正しく読むべきなり。中にもンと云う音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便なりとこころうべし。さてその音便のンの下は、本の語は清音なるをも濁らるる音なれば、皆必ず濁る例なり。たとえばネモコロと云う言を、後にはネンゴロと云うが如し。ンの下のコ文字、本の語は清音なるを、上のモをンと云うにひかれて濁る、みなこの格なり。然るを世の人、その音便のときの濁りに口なれて、正しく読むときも、ネモゴロと、コをにごるはひが事なり。この例多し。心得おくべし。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことばまた好をヨミンズ、悪をニクミンズと訓むなどは、ヨミス、ニクミスにて、これも同じ古言の格なるに、ンを添えたるなり。トキハをトキンバ、ズハをズンバと云う類も同じ。涙をナンダ、成リヌをナンヌ、畢リヌをヲハンヌ、遂ニシをトゲンジ、成リニシをナリンジと訓むたぐい、音便にンと云う事、なおくさぐさ多し。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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『玉勝間』十の巻 はじめを濁る詞言のはじめを濁るも、稀れ稀れには有るは、蒲、石榴、楚、斑、紅粉などの如し。これら古き物にも見えたる詞なり。後世にこそ濁りて云え、古はみな清みて云えりしなり。この外にもなお有るべし、皆同じことなり。蒲は、蒲生など云う時は、今も清めり。ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にも有り、芭蕉なども、古今集の物名に、はせおばと有るは、上のハもじ、古は清みてぞ云いけむ。楚は末枝なり、末をスワと云うは、声をコワヅクリなど云うと同じ。斑は、神代紀にも、斑駒と見えたり、これをムチゴマとも訓めるは、古はフを清める事を知らずして、鞭をも俗にブチと云うにならいて、これをもムチなるべしと心得たる、おしあてなり。紅粉は、和名抄に経粉と見えたり。上の件の外に、ゲニと云う言は、現の字の音にて、後のことなり。場は、古くも大庭馬場などは見えたれど、ただ場と云えることは見えず。こはもとニワにて、大庭はオオニワ、馬場はウマニワなるを、音便にバとは云いなせるなり。また可如などのたぐいは、上に言有りて続く意なれば、異ことなり。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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