玉勝間 / 八の巻 男の名にも某子と云へる事
中昔よりこなた、女ノ名に某子と云ふ事、なべての例なり、古へにもをりをり見えたり。さて古へは、男の名にも、子と云へる多し。まづ神武天皇の御世に、石押分之子、贊持之子と云ふ有り。古事記仁德天皇ノ御段に、丸邇臣口子、書紀應神ノ御卷に、壹岐ノ直眞根子、仁德ノ御卷に、茨田ノ連衫子、又佐伯ノ直阿俄能胡、履中ノ御卷に、阿曇ノ連濱子、雄略ノ御卷に、佐伯部ノ仲子、又難波ノ吉士赤目子、又倭子ノ連、又水ノ江ノ浦嶋ノ子、繼躰ノ御卷に、筑紫ノ君葛子、又目頰子、安閑ノ御卷に、稚子ノ直、欽明ノ御卷に、中臣ノ連鎌子、又葛城ノ山田ノ直瑞子、敏達御卷に、吉士金子、又大伴ノ糠手子ノ連、又物部ノ贊子ノ連、推古御卷に、小野ノ臣妹子など見えたり。さて右の名どもの中に、石押分之子、贊持之子、古事記書紀ともに、之ノ字あり。仁德ノ御卷の、衫子の訓注に、莒呂母能古と見え、また阿俄能胡、又浦嶋ノ子、又中臣ノ系圖に、鎌足公の祖父の名、方子とも、加多能子とも書る、是等によらば、すべて皆某之子と、之をそへて訓むべきかと思はるれど、又繼躰ノ御卷なる目頰子を、歌に梅豆羅古と有れば、なべて之と云ふべきにも有らず。さて又推古ノ御卷に、阿倍ノ臣鳥と云ふ人を、鳥子とも有り。
新字:中昔よりこなた、女ノ名に某子と云ふ事、なべての例なり、古へにもをりをり見えたり。さて古へは、男の名にも、子と云へる多し。まづ神武天皇の御世に、石押分之子、賛持之子と云ふ有り。古事記仁徳天皇ノ御段に、丸邇臣口子、書紀応神ノ御巻に、壱岐ノ直真根子、仁徳ノ御巻に、茨田ノ連衫子、又佐伯ノ直阿俄能胡、履中ノ御巻に、阿曇ノ連浜子、雄略ノ御巻に、佐伯部ノ仲子、又難波ノ吉士赤目子、又倭子ノ連、又水ノ江ノ浦嶋ノ子、継体ノ御巻に、筑紫ノ君葛子、又目頬子、安閑ノ御巻に、稚子ノ直、欽明ノ御巻に、中臣ノ連鎌子、又葛城ノ山田ノ直瑞子、敏達御巻に、吉士金子、又大伴ノ糠手子ノ連、又物部ノ賛子ノ連、推古御巻に、小野ノ臣妹子など見えたり。さて右の名どもの中に、石押分之子、賛持之子、古事記書紀ともに、之ノ字あり。仁徳ノ御巻の、衫子の訓注に、莒呂母能古と見え、また阿俄能胡、又浦嶋ノ子、又中臣ノ系図に、鎌足公の祖父の名、方子とも、加多能子とも書る、是等によらば、すべて皆某之子と、之をそへて訓むべきかと思はるれど、又継体ノ御巻なる目頬子を、歌に梅豆羅古と有れば、なべて之と云ふべきにも有らず。さて又推古ノ御巻に、阿倍ノ臣鳥と云ふ人を、鳥子とも有り。
書き下し
中昔よりこなた、女の名に某子と云う事、なべての例なり、古えにもおりおり見えたり。さて古えは、男の名にも、子と云える多し。まず神武天皇の御世に、石押分之子、贄持之子と云う有り。古事記仁徳天皇の御段に、丸邇臣口子、書紀応神の御巻に、壱岐の直真根子、仁徳の御巻に、茨田の連衫子、又佐伯の直阿俄能胡、履中の御巻に、阿曇の連浜子、雄略の御巻に、佐伯部の仲子、又難波の吉士赤目子、又倭子の連、又水の江の浦嶋の子、継体の御巻に、筑紫の君葛子、又目頬子、安閑の御巻に、稚子の直、欽明の御巻に、中臣の連鎌子、又葛城の山田の直瑞子、敏達御巻に、吉士金子、又大伴の糠手子の連、又物部の贄子の連、推古御巻に、小野の臣妹子など見えたり。さて右の名どもの中に、石押分之子、贄持之子、古事記書紀ともに、之の字あり。仁徳の御巻の、衫子の訓注に、莒呂母能古と見え、また阿俄能胡、又浦嶋の子、又中臣の系図に、鎌足公の祖父の名、方子とも、加多能子とも書る、是等によらば、すべて皆某之子と、之をそえて訓むべきかと思わるれど、又継体の御巻なる目頬子を、歌に梅豆羅古と有れば、なべて之と云うべきにも有らず。さて又推古の御巻に、阿倍の臣鳥と云う人を、鳥子とも有り。
現代語訳
中世以来、女の名に「某子(なにこ)」と付けるのは一般の例であり、古代にもときどき見える。さて古代には、男の名にも「子」と言ったものが多い。まず神武天皇の御代に、石押分之子(いわおしわくのこ)、贄持之子(にえもつのこ)という者がある。古事記の仁徳天皇の段に丸邇臣口子(わにのおみくちこ)、日本書紀の応神天皇の巻に壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)、仁徳の巻に茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)、また佐伯直阿俄能胡(さえきのあたいあがのこ)、履中の巻に阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)、雄略の巻に佐伯部仲子、また難波吉士赤目子、また倭子連、また水江浦嶋子、継体の巻に筑紫君葛子、また目頬子(めずらこ)、安閑の巻に稚子直、欽明の巻に中臣連鎌子、また葛城山田直瑞子、敏達の巻に吉士金子、また大伴糠手子連、また物部贄子連、推古の巻に小野臣妹子などが見える。さて右の名の中で、石押分之子・贄持之子には、古事記・日本書紀ともに「之」の字がある。仁徳の巻の衫子の訓注に「莒呂母能古(ころものこ)」と見え、また阿俄能胡、また浦嶋の子、また中臣氏の系図に鎌足公の祖父の名を「方子」とも「加多能子(かたのこ)」とも書いている。これらによれば、すべてみな「某之子(なにのこ)」と「の」を添えて訓むべきかと思われるが、また継体の巻の目頬子を歌に「梅豆羅古(めずらこ)」とあるから、一律に「の」を言うべきでもない。さてまた推古の巻に、阿倍臣鳥という人を「鳥子」ともしている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 男の名にも某子と云へる事又敏達の御巻なる糠手子の連を、崇峻の御巻には、糠手の連と見え、舒明御巻に、中臣の連弥気と有る人を、家の系図には、御食子の大連公と見え、又皇極の御巻に、巨勢の臣徳太とある人を、孝徳の御巻には、徳陀古とも有る、これらをもて見れば、子と云う事を、はぶきても添えても云えるも有しにや。
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『玉勝間』七の巻 女御多子名字のさだ同別記、久安四年、頼長公の養女、入内によりて、名字を撰ばるるところに云わく、御名字の勘文拝見し、之を返上す、愚案の及ぶ所、多子優れ候か、名字の多きは、平声を用うべしと云々、また親王並びに婦人の名は、訓の未だ慥かならざるの字は用いずと云々、これ公の御前に出でて、声を読むべからず、訓を読むべきの故なりと云々、而るに近代、間訓の慥かならざる字等見え候、如何、なかんずく多の字、まさると云う訓候か、いよいよ神妙に覚え候、子細は只今参入して、言上せしむべく候の状件のごとし、八月七日、大外記中原師安(請文)と有り。名字とは、ただ名のことなり。
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『玉勝間』四の巻 某男と云ふ称同じ書に、渋谷の庄司重国の郎従平太男、行光の郎従藤五男、愚息泰村男、真正男など云う事あり。つれづれ草にも、又五郎男など云えり。この外にもその頃の書に、いやしき者を某男と云える事多し。
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『玉勝間』四の巻 女一宮女二宮など申す唱へ女一の宮・女二の宮など申す女の字、音に読みならえれども、栄華物語などに、男一の宮・男二の宮なども有る、男は音には読むべくも有らず、必ずおとこ一の宮などと読むべければ、女も古えはおんな一の宮、おんな二の宮などぞ読みつらむ。ことわりをもて思うにも、字音には読むまじき続きなり。
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『玉勝間』七の巻 皇孫天孫と申す御号邇邇芸の命より始め奉りて、御代御代の天皇を、皇御孫命とも、天神御子とも申すを、書紀の神代の巻に、皇孫また天孫と書かれたるは、ともに古言にあらず。皇孫とは、皇御孫の命と申す御号を、例の漢文ざまに、つくられたるなり。他の古書どもには皆、皇御孫の命と見えて、続紀の歌に、皇をはぶきて、御孫命とは訓みたる事有れども、命をはぶきて申せる事は見えず。まして天孫と申せることは、古き文には、すべて見えず。天孫とは、天神御子と申すを、つくりかえられたる文字と見えたり。然るを世の人、ひたぶるに漢文ざまのうるわしき方を好むならいと成りては、この皇孫・天孫と申す御号のみひろまりて、かえりて皇御孫の命・天つ神の御子と申す、古のまことのうるわしき御号はかくれたるがごとし。皇孫はすめみま、天孫はあめみまと訓みたれども、文字になずまで、皇孫をば、すめみまのみことと訓み奉るべく、天孫をば、あまつかみのみこと訓み奉りて古のまことの御号を、ひろくせまほしきわざなり。あめみまと云うは、殊に拙なく、よし無き訓なるをや。
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『玉勝間』十四の巻 今の世人の名の事近き世の人の名には、名に似つかわしからぬ字をつく事多し。又、すべて名の訓は、世の常ならぬが多きうちに、近き頃の名には、殊にあやしき字、あやしき訓有りて、いかにとも訓み難きぞ多く見ゆる。すべて名は、いかにも安らかなる文字の、訓のよく知られたるこそ善けれ。これに名と云うは、いわゆる名乗り実名なり。某右衛門某兵衛の類いの名の事にはあらず。さて又その人の性と云う物にあわせて、名をつくるは、云うにも足らぬ、愚かなるならいなり。すべて人に、火性水性など、性と云う事は、更に無き事なり。又名のもじの、反切と云う事をえらぶも、いと愚かなり。反切と云うものは、ただ字の音をさとさむ料にこそ有れ、いかでかは人の名、これにあずからむ。
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