玉勝間 / 八の巻 かんなまんな
假字をカンナとは云ふべし、眞字をマンナと云へるは、ひがことなり。假字は、もとカリナなれば、そのリを音便にンと云ひて、カンナとは云ふなるを、眞字は、マンナと云ふべきことわり無し、そはカンナにならひて、ゆくりなく、同じさまにンを添へたる物なり。
新字:仮字をカンナとは云ふべし、真字をマンナと云へるは、ひがことなり。仮字は、もとカリナなれば、そのリを音便にンと云ひて、カンナとは云ふなるを、真字は、マンナと云ふべきことわり無し、そはカンナにならひて、ゆくりなく、同じさまにンを添へたる物なり。
書き下し
仮字をカンナとは云うべし、真字をマンナと云えるは、ひがことなり。仮字は、もとカリナなれば、そのリを音便にンと云いて、カンナとは云うなるを、真字は、マンナと云うべきことわり無し、そはカンナにならいて、ゆくりなく、同じさまにンを添えたる物なり。
現代語訳
仮字を「カンナ」と言うのはよいが、真字(漢字)を「マンナ」と言ったのは誤りである。仮字はもと「カリナ(仮りの字)」であるから、その「リ」を音便で「ン」と言って「カンナ」と言うのだが、真字は「マンナ」と言うべき道理がない。それは「カンナ」にならって、無造作に同じように「ン」を添えたものである。
解説
「かな」と「まな」の語形を論じた段である。仮名はもと「かりな(仮の字)」で、「り」が音便で「ん」になって「かんな」、さらに「かな」となった。これに対して漢字を言う「真字」はもと「まな(真の字)」で、「ん」が入るべき理由がない。それなのに「まんな」と言うのは、「かんな」に引かれて無造作に「ん」を足した誤りだというのである。漢字を「真」、仮名を「仮」と呼ぶのは、漢字を正式の文字とした昔の考え方の名残であり、宣長自身は、古の日本語の姿を伝えるものとして仮名をこそ重んじた。そのうえで、語形の由来を音便の決まりから厳密に見分けている。言葉がある語の形に引かれて別の語まで変わってしまう現象は、今の言葉の変化にもよく見られる。次の段の「みんなみ」と対になる考証である。
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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うひ山ぶみ・注[チ]道をしらんためには、殊に古事記をさき後世のごとく、好みて漢文に書るにはあらず、さて歌は、殊に詞にあやをなして、一もじもたがへては、かなはぬ物なる故に、古書にもこれをば、別に仮字に書り、それも真仮字也、又祝詞宣命なども、詞をとゝのへかざりたる物にて、漢文ざまには書がたければ、これも別に書法有し也、然るを後世に至りては、片仮字平仮字といふ物あれば、万の事、皇国の語のまゝに、いかやうにも自由に、物はかゝるゝことなれば、古ヘのやうに、物を漢文に書べきことにはあらず、便よく正しき方をすてて、正しからず不便なるかたを用るは、いと愚也、上件の子細をわきまへざる人、古書のみな漢文なるを見て、今も物は漢文に書クをよきことと心得たるは、ひがこと也、然るに諸家の記録其外、つねの文書消息文などのたぐひは、なほ後世までも、みな漢文ざまに書クならひにて、これを男もじ男ぶみといひ、いろは仮字をば女もじ、仮字文をば、女ぶみとしもいふなるは、男はおのづからかの古ヘのならひのまゝに為来り、女は便にまかせて、
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『玉勝間』二の巻 あざ名と云ふ物の事あざ名と云うもの、かの文琳、菅三、平仲などのたぐいのみにもあらず、古より正しき名の外に呼ぶ名を、字と云える事多し。中むかしには、今のいわゆる俗名をも、字と云える事あり。その外にも田地の字、何の字くれの字など云うも、皆正しく定まれる名としも無くて、呼びならえるを云えり。いずれも漢国人の字とはことことなり。そが中に、今の俗名を云えるは、漢人の字と、こころばえ似たり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物語真名本の事伊勢物語に、真名本と云う本あり。万葉の書きざまにならいて、真字して書きたる物なり。六条の宮の御撰と、はじめにあげたれば、その親王の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ偽りにて、後の物なり。まずすべての字のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬ事のみぞ多かる。そが中に、闇うを苦労、指之血を及後などように書けるは、たわぶれ書きにて、万葉にもさるたぐい有り。又東を熱間、云云にけりを迯利など書けるも、清濁こそたがえれ、猶ゆるさるべきを、なんと云う辞に、何の字を用い、ぞに社、とに諾の字を用いたるたぐい、いと心得ず。然のみならず、「思へる」を思恵流、「給へ」を給江、又「ここへ」「かしこへ」などの、「へ」をも、みな江と書き、身をも、これをやなどの、「を」「をや」と云う辞を、面親と書き、忘を者摺と書けるなど、これらの仮字は、今の世とても、歌詠む程の者などは、おさおさ誤る事無きをだに、斯く誤れるは、むげに物書くようをもわきまえ知らぬ、えせ者のしわざと見えて、真字はすべてとり難きものなり。然はあれども、詞は、世のつねの仮字本とくらべて考うるに、互いに善き悪しきところ有りて、かな本の悪しきに、この本の善きも、すくなからず。
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『玉勝間』十一の巻 皇国の学者のあやしき癖かかればもろこしの国にて、その訳字によりて、かの国々の言を覚えたらむは、皆誤りてぞ有るべきを、皇国の仮字は他国の音を訳すに、いと便りよければ、おさおさたがう事無し。されば皇国にては、かのもろこしの訳字をば、みな廃てて、この方の訳をのみ用うべきことなり。それも片仮字は、しどけなくて、漢文などには書きがたくは、真仮字を用うべし。真仮字とは、いわゆる万葉仮字にて、伊呂波爾保閇登とように書くを云う。すべてあらたにこの仮字を用いて、かの五つの洲の名の亜細亜をば阿自夜、欧羅巴をば要呂波とように、万の言を皆かくさまに訳しなば、いとよろしかるべきに、よろしく便りよき、己が国のことを用いずして、かのもろこしの、物遠くたよりあしく、あたらぬ訳字を、大事と守りて用うるは、いといとつたなく愚かなる事にて、これはた例の、他国のことに従うをかしこきわざと心得たる、あやしき学者のくせなりけり。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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