玉勝間 / 八の巻 玄蘇と云ひしほうし
豐臣ノ太閤の朝鮮伐の時に、その命をうけ給はりて、明の國にまかり渡りて、その國王にも逢ひて、筆談などして、かの國の書にも見えたる、玄蘇と云ひし禪ぼうしは、筑前ノ國宗像ノ郡西郷と云ふ所の人にて、伊豆ノ國の伊東ノ祐〓が末なりし者の、筑前に來り住めりしが子孫に、河津新四郞隆業と云ひし人の子なり。天文六年に、此西郷に生れ、後には對馬に住めり。此僧の詩文の集を、仙巢稿と云ふ。慶長十六年十二月廿二日に、七十五にして、對馬にてみまかれりと、かの筑前續風土記に記せり。
新字:豊臣ノ太閤の朝鮮伐の時に、その命をうけ給はりて、明の国にまかり渡りて、その国王にも逢ひて、筆談などして、かの国の書にも見えたる、玄蘇と云ひし禅ぼうしは、筑前ノ国宗像ノ郡西郷と云ふ所の人にて、伊豆ノ国の伊東ノ祐〓が末なりし者の、筑前に来り住めりしが子孫に、河津新四郎隆業と云ひし人の子なり。天文六年に、此西郷に生れ、後には対馬に住めり。此僧の詩文の集を、仙巣稿と云ふ。慶長十六年十二月廿二日に、七十五にして、対馬にてみまかれりと、かの筑前続風土記に記せり。
書き下し
豊臣の太閤の朝鮮伐の時に、その命をうけ給わりて、明の国にまかり渡りて、その国王にも逢いて、筆談などして、かの国の書にも見えたる、玄蘇と云いし禅ぼうしは、筑前の国宗像の郡西郷と云う所の人にて、伊豆の国の伊東の祐〓が末なりし者の、筑前に来り住めりしが子孫に、河津新四郎隆業と云いし人の子なり。天文六年に、此西郷に生れ、後には対馬に住めり。此僧の詩文の集を、仙巣稿と云う。慶長十六年十二月二十二日に、七十五にして、対馬にてみまかれりと、かの筑前続風土記に記せり。
現代語訳
豊臣の太閤(秀吉)の朝鮮出兵の時に、その命令を受けて明国に渡り、その国王にも会って筆談などをして、その国の書物にも名が見える玄蘇という禅僧は、筑前国宗像郡西郷という所の人で、伊豆国の伊東祐〓の末裔であった者が筑前に来て住んだ、その子孫の河津新四郎隆業という人の子である。天文六年にこの西郷で生まれ、後には対馬に住んだ。この僧の詩文集を仙巣稿という。慶長十六年十二月二十二日に、七十五歳で対馬で亡くなったと、あの筑前続風土記に記している。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』八の巻 筑前国続風土記筑前の国続風土記と云う物あり、貝原の篤信が著せるふみにて、かの国内の事どもを、委しく記るしたり。おのれ其のうち僅かに、六、七、八、十五、十六と、五巻を見たり。其の余はいまだえ見ず。十五、十六の二まきは、宗像の郡の事を記るして、十五の巻は、四十四五ひら有る、もはら宗像、三前の御社の事を記るせり。此一まきは、写し置きたり。六七八の三巻は、御笠の郡なり。そもそもこの貝原の翁は、名高き儒者にて、ここらの書どもをあらわして、皆世に弘まれるを、此風土記はしも、中に大きなる書なるに、いまだ世に知る人稀れにして、おのれも、近き頃始めて知れる、いとめずらかに覚えて、かき出たり。
-
『玉勝間』十二の巻 朝鮮ノ国にて加藤清正の人がたを射るわざ新井氏の藩翰譜にいわく、朝鮮国慶尚・全羅道等の水営の軍官、年毎に日をうらないて、諸営の戦艦をあつめて、海に浮かべて、海神を祭るわざあり。わらにて人像を造り、これを射てしずむ。この事、かの国の人は、秘すれども、よく聞けば、清正を呪詛するわざにて、その人像は、清正にかたどれるなり。然るにかの国のよく射る者と云えども、おそれて、中る事あたわざるを、いずれの年にか有りけむ、射あてたる者ありければ、そう無き高名と、云いののしりけるに、その射たる者、たちまち物に狂いてぞ、おどり走りける。その親族ども、清正の霊を祭りて、深く罪を謝しけるにぞ、かの人はうつし心になりにける。それより後は、いよいよ皆おそれて、射る者かえりて、あたらむ事をおそるるとぞ。また本朝寛文の中ごろ、かの例の祭に、水営の軍艦ども、海に浮かびけるに、にわかに風はげしくおこり、浪荒く立ちて、艦ども多くやぶれにける。これ清正のたたりなりとて、いたく恐れけるよし、対馬の国人に、ひそかにうけたまわりぬと、加藤氏の条に見えたり。宣長これを読みて、詠みけるは、いそしきやこのおみにこそたらし姫神の命の御たまたびけめ、かの朝鮮のえだちに、もろこしの国まで大御国の光をかがやかせしは、この主になむ有りける。
-
『玉勝間』十の巻 玄旨法印の忌日同じ集、玄旨法印をかなしめる詞にいわく。五条のもうちぎみより、京極の黄門の一ながれ、その末絶えずして、この法印まで、正しきすじを伝え来たり給えりとぞ。まことに仰ぐべく、とうとまざらむやは。過ぎにし八月廿日に、かくれ給いぬれば、定家卿の正忌にさえあたりにけり。さるべき契や有りけむ云々。「かわらずよ高きその名もおぐら山秋の廿日にきえし月影。
-
『宋名臣言行録』後集巻十一・蘓頌滄州を知り、陛辭す。上曰く、朕每に卿を用いんと欲するも、輒ち事の爲に奪わる。豈に命に非ずや。然れども卿の直道は、久しくして自ら明らかなり、と。頓首して謝す。兼ねて語、偏親の京師に留まりて未だ偕に行く能わざるに及ぶ。上問う、卿の母は誰氏ぞ、と。對えて曰く、故龍圖直學士陳從易の女なり、と。上曰く、是れ天聖間の侍從か、と。對えて曰く、從易は祥符中の館職なり。巳にして外に遷ること久し。因りて廣州より罷め還るに、南の物を蓄えず、獨り俸餘の見錢を載せて嶺を過ぐ。仁宗之を聞きて知制誥に擢づ、と。上曰く、其の清節は馬援に過ぎたり、と。故に謝表に云う、臣の數竒多難を憫れみ、特に淵衷を軫ましめ、臣を勉ますに直道は久しくして自ら明らかなるを以てすること、屢ミ天語に形わる、と。
-
『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏後に易占信州の縣宰たるを以て□に坐して英州に編管せらる。亡匿して曾公の別墅に在り。赦に會いて自ら出づ。子固冤を訟うるも再び劾せられ、復た英州に往きて因りて死す。子固時に喪に奔らず、鄉議の貶する所と爲る。介甫爲に辨曾子を作りて以て之を解く。子固及第すれば鄉人感聖恩道場を作る。以て害を去ると爲すなり。子固好んで漕の勢いに依りて以て州を陵ぎ、州に依りて以て縣を陵ぎ、縣に依りて以て民を陵ぐ。
-
『秘本玉くしげ』下 明の援軍十万これみな世々の書にのせたる、かの国中の戸口の数、軍賦の数などを見てもよくしらるること也。すでに豊臣太閤朝鮮御征伐の時、唐土よりの加勢の軍などをも、此方の人は或は五十万百万などと聞て、おびただしきことのやうにいひふらしつれども、大なる相違にて、其時の軍兵始終十万にも過たることはなし。それほどの軍兵も、大抵の事にてはかり催しがたくて、いろいろと世話をやきてやうやうに催し立たるところ、右のごとくなりし。これみなかの国の書共に見えたる事也。さてかの時の戦ひは、此方にも小西の如き臆病神のつきたりし衆もありつればこそ、まれまれには負軍もありつれ、左様のききおぢだにせずば、始終毎度十分の勝たるべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る