導師導古典を学びたいすべての人に

玉勝間 / 八の巻 枕詞

天又月日など云はむとて、まづひさかたのと云ひ、山と云はむとて、まづあしひきの、と云ふ類ひの詞を、世に枕詞と云ふ。此名、古くは聞も及ばず、中昔の末より云ふ事なめり。是れを枕としも云ふは、かしらに置く故と、誰れも思ふめれど、さには有らず。枕はかしらに置く物には有らず、かしらを支ゆる物にこそ有れさるはかしらのみにも有らず、すべて物のうきて、間のあきたる所を、支ゆる物を、何にもまくらとは云へば、名所を歌枕と云ふも、一句言葉のたらで、明たる所に置く由の名と聞ゆれば、枕詞と云ふも、そのでうにてぞ、云ひそめけんかし。梅の花それとも見えず久方の云云、しのぶれど戀しき時はあしひきの云云などの如し。そもそも是等は、一つのさまにこそ有れ、なべて然るには有らざるを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ、名づけたりけむ。なべてはかしらに置く詞なれば、吾師の冠詞と云はれたるぞ、ことわりかなひては有ける。然は有れども、今はあまねく、枕詞と云ひならひたれば、ことわりは如何にまれ、さても有りぬべくこそ。

新字:天又月日など云はむとて、まづひさかたのと云ひ、山と云はむとて、まづあしひきの、と云ふ類ひの詞を、世に枕詞と云ふ。此名、古くは聞も及ばず、中昔の末より云ふ事なめり。是れを枕としも云ふは、かしらに置く故と、誰れも思ふめれど、さには有らず。枕はかしらに置く物には有らず、かしらを支ゆる物にこそ有れさるはかしらのみにも有らず、すべて物のうきて、間のあきたる所を、支ゆる物を、何にもまくらとは云へば、名所を歌枕と云ふも、一句言葉のたらで、明たる所に置く由の名と聞ゆれば、枕詞と云ふも、そのでうにてぞ、云ひそめけんかし。梅の花それとも見えず久方の云云、しのぶれど恋しき時はあしひきの云云などの如し。そもそも是等は、一つのさまにこそ有れ、なべて然るには有らざるを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ、名づけたりけむ。なべてはかしらに置く詞なれば、吾師の冠詞と云はれたるぞ、ことわりかなひては有ける。然は有れども、今はあまねく、枕詞と云ひならひたれば、ことわりは如何にまれ、さても有りぬべくこそ。

書き下し

天又月日など云わむとて、まずひさかたのと云い、山と云わむとて、まずあしひきの、と云う類いの詞を、世に枕詞と云う。此名、古くは聞も及ばず、中昔の末より云う事なめり。是れを枕としも云うは、かしらに置く故と、誰れも思うめれど、さには有らず。枕はかしらに置く物には有らず、かしらを支ゆる物にこそ有れ、さるはかしらのみにも有らず、すべて物のうきて、間のあきたる所を、支ゆる物を、何にもまくらとは云えば、名所を歌枕と云うも、一句言葉のたらで、明たる所に置く由の名と聞ゆれば、枕詞と云うも、そのじょうにてぞ、云いそめけんかし。梅の花それとも見えず久方の云云、しのぶれど恋しき時はあしひきの云云などの如し。そもそも是等は、一つのさまにこそ有れ、なべて然るには有らざるを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ、名づけたりけむ。なべてはかしらに置く詞なれば、吾師の冠詞と云われたるぞ、ことわりかないては有ける。然は有れども、今はあまねく、枕詞と云いならいたれば、ことわりは如何にまれ、さても有りぬべくこそ。

現代語訳

「天」や「月」「日」などを言おうとして、まず「ひさかたの」と言い、「山」と言おうとして、まず「あしひきの」と言う類の言葉を、世に枕詞という。この名は古くは聞いたこともなく、中世の末ごろから言うことのようだ。これを「枕」とまで言うのは、頭に置くからだと誰もが思っているようだが、そうではない。枕は頭の上に置くものではなく、頭を支えるものである。しかもそれは頭だけのことでもなく、およそ物が浮いて間があいている所を支えるものを、何でも「まくら」と言うので、名所を「歌枕」と言うのも、一句分言葉が足りずにあいている所に置くという意味の名と聞こえるから、枕詞と言うのも、その筋で言い始めたのであろう。「梅の花それとも見えず久方の(天霧る雪のなべて降れれば)」、「しのぶれど恋しき時はあしひきの(山より月の出でてこそ来れ)」などのようなものである。そもそもこれらは一つの型にすぎず、すべてがそうであるわけではないのに、後世の人の考えで、その一方の型について名づけたのであろう。一般には頭に置く言葉であるから、わが師(賀茂真淵)が「冠辞」と言われたのが、道理にかなっているのであった。そうではあるが、今は広く枕詞と言い慣わしているので、道理はどうであれ、それでもよいであろう。

解説

枕詞という名の由来を論じ、師の賀茂真淵の「冠辞」という呼び名に軍配を上げた段である。枕詞は頭に置くから枕だと思われがちだが、宣長は、枕とは頭を支えるもの、さらには物が浮いてできた隙間を支えるものだという。「梅の花それとも見えず久方の」のように、句の終わりに置かれて次の句へつなぐ枕詞は、まさに隙間を支える枕である。だがそれは一つの型にすぎず、多くは句の頭に置かれるから、真淵が著書の冠辞考で「冠辞」と呼んだほうが理にかなうとする。それでいて最後には、世に広く言い慣わされた名なら道理はどうあれそれでよい、と引き下がる。名の正しさにこだわりつつ、通用している言葉を無理に改めようとはしない。この柔らかさも宣長の学問の一面であり、言葉は結局それを使う人々のものだという認識がここにある。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る