玉勝間 / 八の巻 こうさく くわいどく 聞書
いづれの道のまなびにも、講釋とて、古き書の心をとき聞するを、聞くこと常なり。中昔には、これを談義となん云ひけるを、今はだんぎとは、法師の愚かなる者ども集めて、佛の道を云ひ聞するをのみ云ひて、こうさくと云ふは、さまことなり。さて此こうさくと云ふわざは、師の云ふ事をのみ賴みて、己が心もて、考ふる事無ければ、物學びのために、やく無しとて、今やうの儒者などは、宜しからぬわざとして、會讀と云ふ事をぞすなる。そはこうさくとはやう變りて、各みづから考へて、思ひ得たるさまをも、云ひ試み、心得がたきふしをば、問ひ聞き、かへさひもして、かたみにあげつらひ、定むるわざなれば、げに學問のために宜しきしわざとは聞えたれど、それさしも得あらず。
新字:いづれの道のまなびにも、講釈とて、古き書の心をとき聞するを、聞くこと常なり。中昔には、これを談義となん云ひけるを、今はだんぎとは、法師の愚かなる者ども集めて、仏の道を云ひ聞するをのみ云ひて、こうさくと云ふは、さまことなり。さて此こうさくと云ふわざは、師の云ふ事をのみ頼みて、己が心もて、考ふる事無ければ、物学びのために、やく無しとて、今やうの儒者などは、宜しからぬわざとして、会読と云ふ事をぞすなる。そはこうさくとはやう変りて、各みづから考へて、思ひ得たるさまをも、云ひ試み、心得がたきふしをば、問ひ聞き、かへさひもして、かたみにあげつらひ、定むるわざなれば、げに学問のために宜しきしわざとは聞えたれど、それさしも得あらず。
書き下し
いずれの道のまなびにも、講釈とて、古き書の心をとき聞するを、聞くこと常なり。中昔には、これを談義となん云いけるを、今はだんぎとは、法師の愚かなる者ども集めて、仏の道を云い聞するをのみ云いて、こうさくと云うは、さまことなり。さて此こうさくと云うわざは、師の云う事をのみ頼みて、己が心もて、考うる事無ければ、物学びのために、やく無しとて、今ようの儒者などは、宜しからぬわざとして、会読と云う事をぞすなる。そはこうさくとはよう変りて、各みずから考えて、思い得たるさまをも、云い試み、心得がたきふしをば、問い聞き、かえさいもして、かたみにあげつらい、定むるわざなれば、げに学問のために宜しきしわざとは聞えたれど、それさしも得あらず。
現代語訳
どの道の学問でも、講釈といって、古い書物の意味を説き聞かせるのを聞くのが常である。中世にはこれを「談義」と言ったが、今は「だんぎ」とは、法師が愚かな者どもを集めて仏の道を言い聞かせることだけを言って、「こうしゃく(講釈)」と言うのとは様子が異なる。さてこの講釈というやり方は、師の言うことだけを頼りにして、自分の心で考えることがないので、学問のためには役に立たないといって、今どきの儒者などは良くないやり方として、「会読」ということをするそうだ。それは講釈とはやり方が変わっていて、各自が自分で考えて、思い至ったところを言ってみたり、理解しがたい箇所は問い尋ねたり、繰り返し論じ返したりもして、互いに議論して定めるやり方なので、なるほど学問のためによいやり方とは聞こえるが、実はそうでもない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 こうさく くわいどく 聞書世の中に此わざするを見るに、大かた始めの程こそ、此処かしこかえさい、あげつらいなど然るべきさまに見ゆれ、度重なれば、おのずから怠りつつ、一ひらにても、多く読みもてゆかむとする程に、いかにぞや覚ゆるふしぶしをも、多くなおざりに過すならいにて、おおかたひとり居て読むにも、かわる事無ければ、殊に集いたるかいも無き中に、うい学びのともがらなどは、いささかもみずから考え得る力は無きに、是れもかれも聞えぬ事がちなるを、ことごとに問い出む事もつつましくて、聞えぬながらに、さて過ぐしやるめれば、さるともがらなどの為には、猶講釈ぞ勝りては有りける。されどこうさくも、唯だ師の云う事をのみ頼みて、己れ力入れむとも思わず、聞事をのみむねとせむは、云うかい無く口惜きわざなり。まず下見と云う事をよくして、始めより、力の限りは、みずからとかく思いめぐらし、聞えがたき所々は、殊に心を入れて、かえさい読み置けば、聞く時に、心のとまる故に、さとる事も、こよなくして、忘れぬ物なり。さて聞て、家に帰りたらむにも、やがてかえり見と云う事をして、聞きたりし趣を、思い出て味うべし。
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『玉勝間』八の巻 こうさく くわいどく 聞書又聞書と云いて、聞く聞くその趣を書きしるすわざ有り、そは中に忘れもしぬべき節などを、おりおりはいささかずつしるし置かむは、さも有べきわざなるを、始めより師の云うままに、一言も漏らさじと、筆はなたず、ことごとに書き続くるかし。そもそもこうさくは、よく心を鎮めて、事の心を、こまやかに聞き得べきわざなるに、此きき書すとては、聞く方よりも、遅れじと書く方に、心はいそがれて、あわただしきに、殊によく聞くべき節も、かいまぎれて、聞き洩し、或るはあらぬすじに、聞きひがめもするぞかし。然るに是れをしも、いみじきわざに思いて、いかで我れこまかにしるし取らむと、唯だ是れにのみ心を入れて、務むる程に、もはら聞書のためのこうさくに成る類いも多かるは、いといとあじき無きならいになん有ける。
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『玉勝間』二の巻 師の説になづまざる事おのれ古典を解くに、師の説とたがえること多く、師の説の悪ろき事あるをば、わきまえ云う事も多かるを、いとあるまじき事と思う人おおかんめれど、これすなわちわが師の心にて、常におしえられしは、後に善き考えの出で来たらんには、必ずしも師の説にたがうとて、なはばかりそとなむ、教えられし。こはいとたっとき教えにて、わが師の、世にすぐれ給える一つなり。大かた古をかむがうる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめ尽くすべくもあらず。またよき人の説ならんからに、多くの中には、誤りもなどか無からむ、必ず悪ろき事もまじらではえ有らず。そのおのが心には、今は古のこころことごとく明らかなり、これをおきては、有るべくも有らずと、思い定めたる事も、おもいの外に、また人のことなる善き考えも出で来るわざなり。あまたの年を経るまにまに、さきざきの考えのうえを、なおよく考えきわむるからに、つぎつぎにくわしく成りもて行くわざなれば、師の説なりとて、必ずなずみ守るべきにも有らず。善き悪しきを云わず、ひたぶるに古きをまもるは、学問の道には、云うかいなきわざなり。
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『玉勝間』一の巻 がくもん世の中に学問と云うは、からぶみ学びの事にて、皇国の古をまなぶをば、分けて神学・倭学・国学など云うなるは、例のから国をむねとして、御国をかたわらに成せる云いざまにて、いといとあるまじきことなれども、古はただから書学びのみこそ有りけれ、御国の学びとては、もはらとする者は無かりしかば、おのづから然か云いならうべき勢いなり。しかは有れども、近き世となりては、皇国のをもはらとするともがらも多かれば、からぶみ学びをば、分けて漢学・儒学と云いて、この皇国のをこそ、うけばりてただに学問とは云うべきなれ。仏学なども、他よりは分けて仏学と云えども、法師のともは、それをなむただに学問とは云いて、仏学とは云わざる、これ然るべきことわりなり、国学と云えば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、国の字も事にこそよれ、なおうけばらぬ云いざまなり。世の人の物云いざま、すべて斯かる詞に、内外のわきまえを知らず、外国を内になしたる言のみ常に多かるは、からぶみをのみ読みなれたるからの、ひがことなりかし。
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『玉勝間』二の巻 わがをしへ子にいましめおくやう吾に従いて物まなばむともがらも、わが後に、また善き考えのいできたらむには、必ずわが説にななづみそ。わが悪しき故を云いて、善き考えをひろめよ。すべておのが人を教うるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用うるには有りける。道を思わで、いたずらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事物まなびするともがら、古言の、しか云うもとの意を、知らまほしくして、人にもまず問う事、常なり。然云う本の心とは、たとえば天と云うは、いかなる意ぞ、地と云うは、いかなる意ぞ、と云う類いなり。これも学びの一つにて、さも有るべき事には有れども、さしあたりて、むねとすべきわざにも有らず。大かた古えの言は、然云う本の意を知らむよりは、古人の用いたる意を、よく明らめ知るべきなり。用いたる意をだに、よく明らめなば、然云う本の意は、知らでも有るべきなり。そもそも万の事、まずその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論無けれど、然のみにも有らぬわざにて、事のさまによりては、末よりまず物して、後に本へはさかのぼるべきも有るぞかし。大かた言の本の意は、知り難きわざにてわれ考え得たりと思うも当れりやあらずや、定め難く、多くはあたり難きわざなり。されば言の葉の学問は、その本の意を知る事をば、のどめ置きて、かえすがえすも、古え人のつかいたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり。
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