玉勝間 / 八の巻 めあはす
又めあはすと云ふは、女子を男に、親のあはする方にのみつかふめれど、然らず。古事記に目合すと書る意にて、是も只男女あふ事にて、何方よりも云ふ事なり。すべて漢字と訓とは、ゆきたがひて、意のまたくは合ざる事多きを、後ノ世には、ひたすら其字の意をのみ守りて、言の意にかなはぬ事、此類いと多きなり。
書き下し
又めあわすと云うは、女子を男に、親のあわする方にのみつかうめれど、然らず。古事記に目合すと書る意にて、是も只男女あう事にて、何方よりも云う事なり。すべて漢字と訓とは、ゆきたがいて、意のまたくは合ざる事多きを、後の世には、ひたすら其字の意をのみ守りて、言の意にかなわぬ事、此類いと多きなり。
現代語訳
また「めあわす」というのは、娘を男に、親が縁づけさせる方についてだけ使うようだが、そうではない。古事記に「目合(まぐわい)す」と書いてある意味で、これもただ男女が結ばれることであって、どちらの側からでも言う言葉である。およそ漢字とその訓とは食い違っていて、意味がすっかりは合わないことが多いのに、後世にはひたすらその字の意味だけを守って、言葉本来の意味に合わないことが、この類では非常に多いのである。
解説
前段の「とつぐ」に続き、「めあわす」も親が娘を嫁がせる意に限るのは誤りで、本来は男女が相逢うことだと説く。古事記には、大国主神が須勢理毘売と出会う場面などに「目合」の語が見え、目と目を見交わすことから男女が結ばれることをいう。宣長はそこから、漢字と和語の訓とはもともと別の言葉であり、意味がぴったり一致することは少ないという一般論へ進む。字の意味を守るあまり、和語の本来の意味を見失うのは後世の通弊だというのである。これは古事記伝全体を貫く方法でもあり、宣長は漢字の表面ではなく、その下にある古い日本語の声と意味を読もうとした。訳語が元の語と一対一で重ならないことは、今の外来語や翻訳語でも変わらない。
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 とつぐとつぐは嫁の字をよむ故に、ただ女の男にあう方にのみつかえども、さに有らず。鎮火祭の祝詞に、神いざなぎいざなみの命、妹背二柱とつぎ給いて云云、と有りて、ただ男女逢う事なれば、いず方よりも云う事なり。古今著聞集に、天野の遠景と云う者の事を云える条に。渡辺にて、番が妹にとつぎにけりと、男の方にも云えり。其頃まで、此言、古えの意を失わざりしなり。
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『玉勝間』八の巻 まにあはぬ又間にあわぬと云う事も、是れに見えたり。近き世の言には有らず。
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うひ山ぶみ・注[チ]道をしらんためには、殊に古事記をさき後世のごとく、好みて漢文に書るにはあらず、さて歌は、殊に詞にあやをなして、一もじもたがへては、かなはぬ物なる故に、古書にもこれをば、別に仮字に書り、それも真仮字也、又祝詞宣命なども、詞をとゝのへかざりたる物にて、漢文ざまには書がたければ、これも別に書法有し也、然るを後世に至りては、片仮字平仮字といふ物あれば、万の事、皇国の語のまゝに、いかやうにも自由に、物はかゝるゝことなれば、古ヘのやうに、物を漢文に書べきことにはあらず、便よく正しき方をすてて、正しからず不便なるかたを用るは、いと愚也、上件の子細をわきまへざる人、古書のみな漢文なるを見て、今も物は漢文に書クをよきことと心得たるは、ひがこと也、然るに諸家の記録其外、つねの文書消息文などのたぐひは、なほ後世までも、みな漢文ざまに書クならひにて、これを男もじ男ぶみといひ、いろは仮字をば女もじ、仮字文をば、女ぶみとしもいふなるは、男はおのづからかの古ヘのならひのまゝに為来り、女は便にまかせて、
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事物まなびするともがら、古言の、しか云うもとの意を、知らまほしくして、人にもまず問う事、常なり。然云う本の心とは、たとえば天と云うは、いかなる意ぞ、地と云うは、いかなる意ぞ、と云う類いなり。これも学びの一つにて、さも有るべき事には有れども、さしあたりて、むねとすべきわざにも有らず。大かた古えの言は、然云う本の意を知らむよりは、古人の用いたる意を、よく明らめ知るべきなり。用いたる意をだに、よく明らめなば、然云う本の意は、知らでも有るべきなり。そもそも万の事、まずその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論無けれど、然のみにも有らぬわざにて、事のさまによりては、末よりまず物して、後に本へはさかのぼるべきも有るぞかし。大かた言の本の意は、知り難きわざにてわれ考え得たりと思うも当れりやあらずや、定め難く、多くはあたり難きわざなり。されば言の葉の学問は、その本の意を知る事をば、のどめ置きて、かえすがえすも、古え人のつかいたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり。
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『玉勝間』二の巻 神典のときざま中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
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『玉勝間』十二の巻 妻をむかふ、酒をくむ今の世の歌よみの、詞書などに、某の妻をむかえられたるをことぶきて、詠みておくりけるなど、妻を迎うと書く事、定まりのようなり。これ雅言にあらず。古に然いえること無し。妻をもうけとこそ書くべけれ。古はすべて、男をもうく、子をもうくなどぞ云いける。また酒をくむと云うことも、今の世の歌人の、定まれる事なれど、これもみやび言にあらず。すべて酒をくみてのむは、戎国の俗にこそあれ、皇国にはさる事は、古えも今も、有る事なし。されば古くは、歌にも文にも、くむと云えることは、おさおさ見えず、ただのむとこそ云えれ。然るを今の歌人は、いにしえの例をば考えずして、ただおしあてに、妻をもうく、酒をのむとは、今の俗につねに云うことなれば、雅たらず、むかうと云い、くむと云わむこそ、雅たらめとぞ、心得ためる。そはかの香を聞くと云うたぐいにて、なかなかに古にたがえる俚言なる物をや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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