玉勝間 / 八の巻 巻頭萩の下葉八
人はこず萩の下葉もかつ散りて嵐は寒し秋の山ざと、は文字を重ねたる、古への歌どもを見て、ふとおかしきふしに覺えたるままに、われもいかでと詠み出たるなり。聞えてや有らむ、聞えずや有らむ。われは聞えたりと思ふとも、人の見たらんには、いかが有らん、聞えずやあらむ、知らずかし。
新字:人はこず萩の下葉もかつ散りて嵐は寒し秋の山ざと、は文字を重ねたる、古への歌どもを見て、ふとおかしきふしに覚えたるままに、われもいかでと詠み出たるなり。聞えてや有らむ、聞えずや有らむ。われは聞えたりと思ふとも、人の見たらんには、いかが有らん、聞えずやあらむ、知らずかし。
書き下し
人はこず萩の下葉もかつ散りて嵐は寒し秋の山ざと、は文字を重ねたる、古えの歌どもを見て、ふとおかしきふしに覚えたるままに、われもいかでと詠み出たるなり。聞えてや有らむ、聞えずや有らむ。われは聞えたりと思うとも、人の見たらんには、いかが有らん、聞えずやあらむ、知らずかし。
現代語訳
「人はこず萩の下葉もかつ散りて嵐は寒し秋の山ざと」(人は訪ねて来ず、萩の下葉も散りはじめて、嵐が寒く吹く秋の山里よ)という歌は、同じ文字を重ねて詠んだ古い歌々を見て、ふと面白い趣向だと思ったまま、自分もなんとか詠んでみようと作ったものである。意味が通じているだろうか、通じていないだろうか。自分では通じていると思っても、人が見たらどうだろう、通じないかもしれない。それは分からないことだ。
解説
八の巻の巻頭の書き付けで、この巻の名「萩の下葉」はこの歌からとられている。歌は「人は」「萩の」「下葉も」「嵐は」と「は」の音を幾度も重ね、秋の山里のさびしさを詠む。宣長は、同じ文字を重ねる古歌の技巧を面白く思い、自分も試みたのだという。万葉集には天武天皇の「よき人のよしとよく見て」のように、同じ音を畳みかける歌がある。宣長にとって歌は鑑賞するだけのものではなく、古人の詠みぶりを自分で詠んで確かめるものであった。そのうえで、自分では通じたつもりでも他人が読めば分からないかもしれない、と率直に書き添える。作り手の手応えと読み手の受け取りは別物だという、書き手としての醒めた自覚がここに見える。
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