玉勝間 / 七の巻 吉野ノ朝の公卿補任
吉野の朝廷の公卿補任一卷あり、後醍醐ノ天皇かしこにうつらせおはしまして、延元二年より、後龜山ノ天皇の御代、元中九年にいたるまで、すべて三御代、五十六年の程の、公卿の昇進つぶさにしるせり、いと珍しき書なり。此書、備前ノ國岡山の河本某が家に有り。この河本は、備後ノ三郞高德が末にて、宇喜田氏の族、河本對馬守親家と云ひしが末なりとかや。然るゆゑよしにてや、此書は傳へ持たりけむ。今は岡山の商人なるを、あやしく世世書を集むることを好みて、すべてやまと、もろこしの諸の書ども、いとここらつどへ持たりとぞ。
新字:吉野の朝廷の公卿補任一巻あり、後醍醐ノ天皇かしこにうつらせおはしまして、延元二年より、後亀山ノ天皇の御代、元中九年にいたるまで、すべて三御代、五十六年の程の、公卿の昇進つぶさにしるせり、いと珍しき書なり。此書、備前ノ国岡山の河本某が家に有り。この河本は、備後ノ三郎高徳が末にて、宇喜田氏の族、河本対馬守親家と云ひしが末なりとかや。然るゆゑよしにてや、此書は伝へ持たりけむ。今は岡山の商人なるを、あやしく世世書を集むることを好みて、すべてやまと、もろこしの諸の書ども、いとここらつどへ持たりとぞ。
書き下し
吉野の朝廷の公卿補任一巻あり、後醍醐の天皇かしこにうつらせおわしまして、延元二年より、後亀山の天皇の御代、元中九年にいたるまで、すべて三御代、五十六年の程の、公卿の昇進つぶさにしるせり、いと珍しき書なり。この書、備前の国岡山の河本某が家に有り。この河本は、備後の三郎高徳が末にて、宇喜田氏の族、河本対馬守親家と云いしが末なりとかや。然るゆえよしにてや、この書は伝え持たりけむ。今は岡山の商人なるを、あやしく世々書を集むることを好みて、すべてやまと、もろこしの諸の書ども、いとここらつどえ持たりとぞ。
現代語訳
吉野の朝廷(南朝)の公卿補任が一巻ある。後醍醐天皇が吉野にお移りになって、延元二年から後亀山天皇の御代の元中九年に至るまで、全部で三代、五十六年ほどの公卿の昇進を詳しく記している。たいそう珍しい書である。この書は備前国岡山の河本某の家にある。この河本は、備後三郎高徳の子孫で、宇喜多氏の一族の河本対馬守親家という人の末裔だという。そういう由縁で、この書を伝え持っていたのであろうか。今は岡山の商人であるが、不思議に代々書物を集めることを好んで、日本・中国のさまざまな書物を、たいそう多く集めて持っているという。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事その頃までは、大かた斯かりけるに、このちかき年頃となりては、写本ながら代匠記も多く出でて、さらに得がたからず成りぬるは、古学の道のひらけて、ようずる人多ければぞかし。さるは代匠記のみにも有らず、すべて写しまきなる物は、家家の記録などのたぐい、その外の書どもも、いといと得がたかりしに、何も何も、今はたやすく得らるる事となれるは、いともいともめでたく尊き、御代の御栄えになん有りける。
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『玉勝間』七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。
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『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事同書に、文和四年二月十一日、天晴る、今日、吉田神主兼豊、状を女中に進むるの次いで、当社追捕の事之を申す、およそ為す方無きか、この程は、道もあまりにあまりにろうぜきに候。また斎屋をも見捨てがたくて、参り候わず、去る三日、山のぐんぜい社頭へ乱入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神宝を追捕し、また御かまいしいしまで、追捕しつる程に、ともかくも申す計り候わで、火にも水にも入りたきまでに、なげき存じ候、よし田の御参りも、今ちと御延わたらせおわしまして、事のよう、いささかも御らんじしずめられ候御事にて候え、とても今は、物参の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覚えさせおわしまして候、こまかにおおせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ。これ兼豊の状なり。山のぐんぜいとは、この程比叡の山にあつまりいたる軍勢を云えり。尊き御社を、さばかりそこない奉りけむ、その世のもののふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなども世のつねなり。また同じ書に同年七月廿六日、後に聞く、今夜窃盗頗る人勢を卒い、禁中の女房勾当内侍、並びに禁中管領宰相典侍已下の局に乱入し、悉く追捕す。台盤所の遣戸等、踏み破ると雖も、御所に入らず退散すと云々。末代の極み、悲しいかな。
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『玉勝間』一の巻 古書どもの事古きふみどもの、世にたえてつたわらぬは、万よりもくち惜しく歎かわしきわざなり。釈日本紀、仙覚が万葉の抄などを見るに、そのほどまでは、国々の風土記も大かたそなわりて、伝われりと見えたり。釈に引きたる上宮記と云う物は、いささかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きわふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有りけむ。また風土記は、いとたふとき物なるに、今はただ出雲一国ののみ、またくては残りて、ほかはみな絶えぬるは、かえすがえすもくち惜し。さるは応仁よりこなた、打ち続きたるみやこの乱れに、ふるき書どもも、みな焼けうせ、あるいは散りぼい失せぬるなるべし。そも今の世のごと、国々にも学問するともがら多く、書どもようじ持たる者おおからましかば、むげに絶えはつる事はあらじを、そのかみはいまだいなかには、学問するともがらもいといと稀れにして、京ならでは、おさおさ書どもも、無かりしが故なめり。されどから国のふるき書どもはしも、これかれといなかにも残れるが有るは、むねとからを好むよのならいなるが故なり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』一の巻 又また心無き商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、ここかしこひそかにはぶきなどもして、物する程に、全く善き本はいとまれにのみ成り行くめり。さればたとい悪しくは有りとも、なおもろもろの書は、板にえり置かまほしきわざなり。殊に貞観儀式、西宮記、北山抄などのたぐい、そのほかも、古えのめでたき書どもの、なお写本のみにて有るが多きは、いかでいかで皆板にえりて、世にひろくなさまほしきわざなり。家々の記録ぶみなども、つぎつぎにえらまほし。今の世大名たちなどにも、ずいぶんに古書をようじ給う有れど、ただその家の蔵におさめて、あつめ置かるるのみにて、見る人も無く、ひろまらざれば、世のためには何のやく無く、有るかいも無し。もしまことに古書をめで給う心ざし有らば、斯かるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、その道の人に仰せて、あだし本どもをも読み合わせ、善きをえらばせて、板にえらせて、世にひろめ給わむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功なるべし。
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