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玉勝間 / 七の巻 ゐなかに古への雅言ののこれる事

いづれの國にても、しづ山がつの云ふ言は、よこなまりながらも、多く昔の言を云ひ傳へたるを、人繁くにぎははしき里などは、他國人も入まじり、都の人なども、事にふれて來通ひなどする程に、おのづから此處かしこの詞を聞きならひては、おのれも言撰りして、なまさかしき今やうに移り易くて、昔ざまに遠く、中中にいやしくなんなりもて行くめる。まことや同じ肥後の國の、又の人の云へる、かの國にて、ひきがへると云ふ物を、たんがくと云ふなるは、古、のたにぐくの訛りなるべく覺ゆ、と語りしはまことに然かなるべし。此たぐひの事、國國に猶聞る事多かるを、今はふと思ひ出たる事を云ふなり、なほ思ひいでむままに、又も云ふべし。

新字:いづれの国にても、しづ山がつの云ふ言は、よこなまりながらも、多く昔の言を云ひ伝へたるを、人繁くにぎははしき里などは、他国人も入まじり、都の人なども、事にふれて来通ひなどする程に、おのづから此処かしこの詞を聞きならひては、おのれも言撰りして、なまさかしき今やうに移り易くて、昔ざまに遠く、中中にいやしくなんなりもて行くめる。まことや同じ肥後の国の、又の人の云へる、かの国にて、ひきがへると云ふ物を、たんがくと云ふなるは、古、のたにぐくの訛りなるべく覚ゆ、と語りしはまことに然かなるべし。此たぐひの事、国国に猶聞る事多かるを、今はふと思ひ出たる事を云ふなり、なほ思ひいでむままに、又も云ふべし。

書き下し

いずれの国にても、しず山がつの云う言は、よこなまりながらも、多く昔の言を云い伝えたるを、人繁くにぎわわしき里などは、他国人も入りまじり、都の人なども、事にふれて来通いなどする程に、おのずからここかしこの詞を聞きならいては、おのれも言撰りして、なまさかしき今ように移り易くて、昔ざまに遠く、なかなかにいやしくなんなりもて行くめる。まことや同じ肥後の国の、またの人の云える、かの国にて、ひきがえると云う物を、たんがくと云うなるは、古のたにぐくの訛りなるべく覚ゆ、と語りしはまことに然かなるべし。このたぐいの事、国々になお聞ける事多かるを、今はふと思い出でたる事を云うなり、なお思い出でむままに、またも云うべし。

現代語訳

どこの国でも、身分の低い山里の者の言う言葉は、なまってはいても、多く昔の言葉を言い伝えているのに、人が多くにぎやかな里などは、他国の人も入り混じり、都の人なども何かにつけて行き来したりするうちに、自然にあちこちの言葉を聞き慣れて、自分も言葉を選んで、生半可に気の利いた今風に移りやすく、昔の姿から遠ざかって、かえって卑しくなっていくようである。そういえば、同じ肥後国の別の人が言ったことに、「あの国で、ひきがえるというものを『たんがく』と言うのは、古語の『たにぐく』のなまりであろうと思われる」と語ったのは、本当にそうであろう。このたぐいのことは、諸国についてなお聞いたことが多いが、今はふと思い出したことを言うのである。なお思い出すままに、また言うことにしよう。

解説

前の段の続きで、なぜ田舎に古語が残り、町では失われるのかを説明している。人の往来の多いにぎやかな土地では、他国の人や都の人の言葉に触れ、自分も言葉を選んで今風に合わせようとする。その結果、昔の言葉から離れ、かえって卑しくなる、と宣長は言う。外との交流が言葉を均し、古いものを消していくという見方は、今の言語学の考えにも通じる。例として、肥後でひきがえるを「たんがく」と呼ぶのは、古事記に見える「たにぐく」のなまりだろうという説を挙げる。たにぐくは大国主神の国造りの場面に登場する蟇蛙で、谷を潜る者の意とされる。古事記の中の言葉が、九州の方言に生きているというのである。宣長はこうした例をさらに集めたいと言って結ぶ。方言を古語の宝庫として見る宣長の関心が、古事記研究と深く結びついていたことがわかる。

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