玉勝間 / 七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事
世のこちたくさかしだちたる〓は上べこそよろしきに似たれ、まことには、いとよろしからず、中中の物害ひとなる事をさとりて、まことの道は斯くこそ有るべきものなれと、はしばしみづから考、出たる事の中に、考へあてて、たまたま此まことの道に似たるふし、合へる事も有るなりけり。さるは、まことの道は、もとより人のさかしらを加へたる事無く、皇神の定めおき給へるままなる道にし有れば、その趣を說かむには、彼れが、さかしらをにくめる說は、おのづから似たるところ、合へるところ有べきことわりなり。然かは有れども、彼れが云へるは、唯たおのが智慮もて、考へ出たるかぎりにこそ有れ、皇國に生れて、正しく此道を聞るにあらざれば、その主と有る本の心は、知ることあたはず、いたくたがひて、さらに似もつかぬ事なるを、彼の漢學のともがら、然かたがへるところをば知らで、たまたまかたはし似たる事の有るを捉へて、其れによれりとしも云ひなすは、いとをこなりかし。
新字:世のこちたくさかしだちたる〓は上べこそよろしきに似たれ、まことには、いとよろしからず、中中の物害ひとなる事をさとりて、まことの道は斯くこそ有るべきものなれと、はしばしみづから考、出たる事の中に、考へあてて、たまたま此まことの道に似たるふし、合へる事も有るなりけり。さるは、まことの道は、もとより人のさかしらを加へたる事無く、皇神の定めおき給へるままなる道にし有れば、その趣を説かむには、彼れが、さかしらをにくめる説は、おのづから似たるところ、合へるところ有べきことわりなり。然かは有れども、彼れが云へるは、唯たおのが智慮もて、考へ出たるかぎりにこそ有れ、皇国に生れて、正しく此道を聞るにあらざれば、その主と有る本の心は、知ることあたはず、いたくたがひて、さらに似もつかぬ事なるを、彼の漢学のともがら、然かたがへるところをば知らで、たまたまかたはし似たる事の有るを捉へて、其れによれりとしも云ひなすは、いとをこなりかし。
書き下し
世のこちたくさかしだちたる事は上べこそよろしきに似たれ、まことには、いとよろしからず、なかなかの物害いとなる事をさとりて、まことの道はかくこそ有るべきものなれと、はしばしみずから考え出でたる事の中に、考えあてて、たまたまこのまことの道に似たるふし、合える事も有るなりけり。さるは、まことの道は、もとより人のさかしらを加えたる事無く、皇神の定めおき給えるままなる道にし有れば、その趣を説かむには、彼れが、さかしらをにくめる説は、おのずから似たるところ、合えるところ有るべきことわりなり。然かは有れども、彼れが云えるは、ただおのが智慮もて、考え出でたるかぎりにこそ有れ、皇国に生まれて、正しくこの道を聞けるにあらざれば、その主と有る本の心は、知ることあたわず、いたくたがいて、さらに似もつかぬ事なるを、彼の漢学のともがら、然かたがえるところをば知らで、たまたまかたはし似たる事の有るを捉えて、それによれりとしも云いなすは、いとおこなりかし。
現代語訳
(老子は)世の大げさで小賢しい事柄は、表向きはよいように見えるけれども、本当はたいそうよくなく、かえって物を損なうもとになることを悟って、まことの道はこうあるべきものだと、ところどころ自分で考え出したことの中に、考え当てて、たまたまこのまことの道に似た点や合うこともあったのである。それというのも、まことの道はもともと人の小賢しさを加えることがなく、皇神が定めておかれたままの道なので、その趣旨を説こうとすれば、老子が小賢しさを憎んだ説には、おのずから似たところ、合うところがあるのは道理である。そうではあるが、老子が言ったのは、ただ自分の知恵で考え出した限りのものであって、皇国に生まれて正しくこの道を聞いたのではないから、その根本となる本来の心は知ることができず、大きく違っていて、まったく似ても似つかないものである。それなのに、あの漢学の者たちは、そのように違っているところを知らずに、たまたま一部に似たところがあるのをとらえて、それによったのだと言い立てるのは、たいそう愚かなことである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事おのれ今まことの道の趣を見明らめて、解きあらわせるを、漢学のともがら、かの国の老子と云う者の説によれり、と思い云う人、これかれ有り。そもそもおのが道を説く趣は、いささかも私のさかしらをば交えず、神典に見えたるままなる事、あだし注釈どもと、くらべ見て知るべし。かくてその趣の、たまたま彼の老子と云う者の言と、似たるところどころの有るを見て、ゆくりなく、それによりて云えりとは、例のかのもろこしの国をおきて外に国は無く、かの国ならでは、何事も始まらぬ事と、ひたおもむきに思いとれる、ひが心より、さは思うなんめり。古より、漢の国と通えること無く、たがいに聞きも及ばざりし国々にも、程々につけつつ、有るべきかぎりの事は、おのおの本より有りける中にも、殊に皇国は、万の国の本、よろずの国の宗と有る御国なれば、万の国々にわたりて、正しきまことの道は、ただ皇国にこそ伝わりたれ、他国には、伝われる事無ければ、この道を知ることあたわず。然るにもろこしの国に、かの老子と云いしは、すぐれて賢くたどり深き人にこそ有りけめ。
-
『玉勝間』七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事大かた万ずの事、おのずからこれにも彼れにも、通いて似たる事は、必ずまじる物にて、この道も、儒のおもむきと通えるところも交じり、仏の道とも似たる事はまじれれば、おのずから彼の老子とも、かたはし似たるところ通えるところは、などか交じらでは有らむ。
-
『玉勝間』七の巻 道を説く事はあだし道道の意にも世の人のとりとらざるにもかかはるまじき事道を説かむに儒にまれ、老にまれ、仏にまれ、稀れ稀れに心ばえの通える所の有るを捉えて、おのが心のひくかたにまかせて、通わぬ所をも、すべてその筋に引きよせて説きなし、或いはまた他道と同じからん事を、いといさけて、殊更にけじめを見せ、さまを変えて説かむとする、これら皆いとあじきなくしいたるわざなり似ざらむも似たらむも、異ならむも同じからむも、とにかくに異道の意には、いささかもかかわるべきわざにあらず。またかく説きたらむには、世にうけひかじ、かく云いてこそ、人は信ぜめなど、世の人の心をとりて、いささかも説き曲げむ事は、またいと有るまじく、心ぎたなきわざなり。すべて世の人の褒め謗りをも、思うべきにはあらず。たとい、あだし道々とは、うらうえのたがいあり、世にも絶えて信ずる人無からむにても、ただ神の御ふみの趣のままにこそは、説くべきわざなりけれ。
-
『玉勝間』十四の巻 世の人まことの道に心つかざる事もろこしの国には、道教と云うもの、世々に盛んに行われて、大かた仏道とひとしきばかりなり。この道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、ただあやしき戯れわざのようなる事にて、そのむねを極むれば、ようなきいたずら事なり。皇国に、この道のわたりもうでこざるは幸いなり。然は有れども、天の下の人の心、仏道と儒道とに、ことごとく奪われ果てたるは、又なげかしき事なり。大かた天下の人、上中下、さかしき愚かなる、おしなべて、奥山の山賤までも、仏を信ぜざるは一人も無く、その中に、角なる字をもいささか読むほどの者は、又なかば儒意をまじえて、万ずの事を思い定むめり。されば、神のまことの道を思う人は、千万人の中に、ただ一人二人にて、その余は神社につかうる人の中に、稀れ稀れさすがに己が家の業と思い得て、神の道を尊ぶもあれど、さる人も、多くは仏意儒意なり。又神の道と云うも、皆儒仏によりて説きまげたる物なれば、まことの道は、大かた絶えはてたるも同じ事なり。
-
『玉勝間』二の巻 道にかなはぬ世中のしわざ道にかなわずとて、世に久しく有りならいつる事を、にわかにやめむとするはわろし。ただそのそこないの筋をはぶき去りて、ある物はあるにてさし置きて、まことの道を尋ぬべきなり、よろずの事を、しいて道のままに直しおこなわむとするは、なかなかにまことの道のこころにかなわざる事あり。万の事は、おこるもほろぶるも、盛りなるも衰うるも、みな神の御心にし有れば、さらに人の力もて、得うごかすべきわざにはあらず。まことの道の意をさとりえたらむ人は、おのずからこのことわりはよく明らめ知るべきなり。
-
『直毘霊』老荘が意にひとしきか程々にあるべき限りのわざをして、穏しく楽しく世を渡らうほか無かりしかば。かくあるほかに、何の教え言をか待たん、抑緑子に物教え、又諸々の匠の物造る術、其の外万の伎芸などを教うることは、上代にも有りけんを、彼の儒仏などの教え事も、言いもてゆけば、これらと異なることなきに似たれども、弁うれば同じからざることぞかし。今はた其の道と言いて、別に教えを受けて、行うべきわざは有りなんや。然らば神の道は、唐国の老荘が意に等しきかと、或る人の疑い問えるに、答えけらく、彼の荘老が伴は儒者のさかしらを煩さみて、自然なるを尊めば、自ずから似たることあり、されど彼らも、大御神の御国ならぬ悪しき国に生まれて、唯代々の聖人の説をのみ聞き慣れたるものなれば、自然なりと思うも、猶聖人の意の自ずからなるにこそあれ、万の事は神の御心より出でて、その御所為なることをしも、え知らねば、大旨の甚く違える物をや。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る