玉勝間 / 七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事
大かた萬づの事、おのづから是れにも彼れにも、通ひて似たる事は、必ずまじる物にて、此道も、儒のおもむきと通へるところも交り、佛の道とも似たる事はまじれれば、おのづから彼の老子とも、かたはし似たるところ通へるところは、などか交らでは有らむ。
新字:大かた万づの事、おのづから是れにも彼れにも、通ひて似たる事は、必ずまじる物にて、此道も、儒のおもむきと通へるところも交り、仏の道とも似たる事はまじれれば、おのづから彼の老子とも、かたはし似たるところ通へるところは、などか交らでは有らむ。
書き下し
大かた万ずの事、おのずからこれにも彼れにも、通いて似たる事は、必ずまじる物にて、この道も、儒のおもむきと通えるところも交じり、仏の道とも似たる事はまじれれば、おのずから彼の老子とも、かたはし似たるところ通えるところは、などか交じらでは有らむ。
現代語訳
おおかたあらゆることは、おのずからこれにもあれにも通じて似ていることが必ず混じるものであって、この道も、儒教の趣旨と通じるところも混じり、仏の道とも似ていることが混じっているのだから、おのずからあの老子とも、一部に似たところや通じるところが、どうして混じらないことがあろうか。
解説
老子をめぐる論の結びの一文である。宣長は、どんな教えにも他の教えと似たところは必ず混じるものだと言う。古道にも儒教と通じるところ、仏教と似たところがある。それなら老子と一部似ていても何の不思議もない、と。似ているところがあることは、影響を受けた証拠にはならないという、ごく冷静な指摘である。人間の考えることには共通する部分があり、別々の場所で似た考えが生まれることは珍しくない。一部の類似から借用を言い立てるのは、議論を安易にする。この結びは、次の段で説く、他の教えとの似る似ないに一切とらわれずに道を説け、という主張への橋渡しにもなっている。自分の考えが他と似ていても気にせず、違っていても気にしない。独自性をことさらに示そうとしないのも、一つの見識である。
関連する章句
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