学問のすゝめ / 十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・事物の有様を比較して上流に向かい
しからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬えば今、少年の生徒、酒色に溺るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。広く古今の人物を計え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。必ず上流の人物に向かわざるべからず。あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。いわんや後進は先進に優るべき約束なれば、古を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。今人の職分は大にして重しと言うべし。
書き下し
しからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬えば今、少年の生徒、酒色に溺るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。広く古今の人物を計え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。必ず上流の人物に向かわざるべからず。あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。いわんや後進は先進に優るべき約束なれば、古を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。今人の職分は大にして重しと言うべし。
現代語訳
ではどうすれば人の見識を高尚にし、その品行を引き上げられるのでしょうか。その要は、事物のありさまを比較して上のほうに向かい、自ら満足することがないという一事にあります。ただし、ありさまを比較するとは一つの事物を比較することではなく、この全体のありさまとあのの全体のありさまとを並べて、双方の得失を残らず見なければなりません。たとえば今、少年の生徒が酒色に溺れる噂もなく謹慎して勉強すれば、父兄や年長者に咎められることもなく、得意になってもよさそうに見えますが、その得意はただ他の無頼な学生と比べての得意にすぎません。謹慎と勉強は人として当たり前で、褒めるに足りません。人生の約束は別にもっと高いものがなくてはなりません。広く古今の人物を数え、誰と比べて誰の功業に等しいものを成せば満足できるのか。必ず上流の人物に向かわねばなりません。あるいは自分に一つの得るところがあっても、相手に二つあるときは、自分はその一つに安んじる道理がありません。まして後進は先進に優るはずの約束ですから、昔を空しくして比べるべき人物がないところまで行かねばなりません。今の人の職分は大きく重いと言うべきです。
解説

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