玉勝間 / 七の巻 契沖ほうしの墓のいしぶみ
聽者悚然、以爲古行秘書之流亞、幼時長流子誦其篇什、莫逆乎心、乃請爲方外之交、相與唱酬、以爲得一鍾期焉、其優浮屠之法、即具載水戶詞臣安藤爲明所撰行狀、及僧義剛所錄逸事狀、此沖之梗〓爾、余聞之嘆曰、斯異乎世僧之撰、其豈可以浮屠之故都之耶、乃取行狀讀之、沖姓下川氏、諱空心、祖考諱元宜、仕肥後守加藤清正、考諱元全、仕尼崎城主靑山幸利、娶間氏生沖、五歲、能誦定家所輯和歌百首、七歲、嬰疾幾死、乃懇父母爲僧、時年十有三矣、性恬澹愛靜、不欲主巨刹、晩住持持之妙法寺、蓋爲邇母氏居也、母氏終天年、乃退居圓珠庵、沒年六十二、臘五十云、寛保三年癸亥孟冬、大坂五井純禎撰。この圓珠庵と云ふは、大坂の高津のうち、餌指町と云ふ所にて、此ほうしの墓は、その庵のしめの內、竹村のかたはらに在りて、まへにこの碑は立てりとぞ。おのれさいつ頃大坂にゆきて、此高津のわたり物せしをり、いかで立よりて、此墓もをがまばやと思ひしを、日くれかたになりて、宿れるところも、程遠かりければ、道いそがれて、え物せざりきかし。此いしぶみの詞は、人のうつしてもたりけるを、又寫せるなり。
新字:聴者悚然、以為古行秘書之流亜、幼時長流子誦其篇什、莫逆乎心、乃請為方外之交、相与唱酬、以為得一鍾期焉、其優浮屠之法、即具載水戸詞臣安藤為明所撰行状、及僧義剛所録逸事状、此沖之梗〓爾、余聞之嘆曰、斯異乎世僧之撰、其豈可以浮屠之故都之耶、乃取行状読之、沖姓下川氏、諱空心、祖考諱元宜、仕肥後守加藤清正、考諱元全、仕尼崎城主青山幸利、娶間氏生沖、五歳、能誦定家所輯和歌百首、七歳、嬰疾幾死、乃懇父母為僧、時年十有三矣、性恬澹愛静、不欲主巨刹、晩住持持之妙法寺、蓋為邇母氏居也、母氏終天年、乃退居円珠庵、没年六十二、臘五十云、寛保三年癸亥孟冬、大坂五井純禎撰。この円珠庵と云ふは、大坂の高津のうち、餌指町と云ふ所にて、此ほうしの墓は、その庵のしめの内、竹村のかたはらに在りて、まへにこの碑は立てりとぞ。おのれさいつ頃大坂にゆきて、此高津のわたり物せしをり、いかで立よりて、此墓もをがまばやと思ひしを、日くれかたになりて、宿れるところも、程遠かりければ、道いそがれて、え物せざりきかし。此いしぶみの詞は、人のうつしてもたりけるを、又写せるなり。
書き下し
聴く者悚然として、以て古の秘書の流亜と為す、幼き時長流子その篇什を誦して、心に逆らう莫く、乃ち請いて方外の交わりを為し、相与に唱酬して、以て一鍾期を得たりと為す、その浮屠の法を修むるは、即ち具に水戸の詞臣安藤為明の撰する所の行状、及び僧義剛の録する所の逸事状に載す、これ沖の梗概のみ、余之を聞きて嘆じて曰く、これ世僧の撰に異なり、それ豈に浮屠の故を以て之を鄙しむべけんや、乃ち行状を取りて之を読む、沖の姓は下川氏、諱は空心、祖考の諱は元宜、肥後守加藤清正に仕う、考の諱は元全、尼崎城主青山幸利に仕う、間氏を娶りて沖を生む、五歳にして、能く定家の輯むる所の和歌百首を誦す、七歳、疾に嬰りて幾ど死せんとす、乃ち父母に懇いて僧と為る、時に年十有三なり、性恬澹にして静を愛し、巨刹に主たるを欲せず、晩に妙法寺に住持す、蓋し母氏の居に邇きが為なり、母氏天年を終え、乃ち退きて円珠庵に居る、没年六十二、臘五十と云う、寛保三年癸亥孟冬、大坂の五井純禎撰す。この円珠庵と云うは、大坂の高津のうち、餌指町と云う所にて、このほうしの墓は、その庵のしめの内、竹村のかたわらに在りて、まえにこの碑は立てりとぞ。おのれさいつ頃大坂にゆきて、この高津のわたり物せしおり、いかで立ちよりて、この墓もおがまばやと思いしを、日くれかたになりて、宿れるところも、程遠かりければ、道いそがれて、え物せざりきかし。このいしぶみの詞は、人のうつしてもたりけるを、また写せるなり。
現代語訳
「聞く者は身の引き締まる思いで、古の秘書に通じた人に次ぐものだと思った。若い時、下河辺長流はその作品を誦して心にかなうものがあり、請うて俗世を離れた交わりを結び、互いに歌を詠み交わして、自分の心を知る鍾子期のような友を得たと思った。僧としての修行のことは、詳しく水戸の家臣安藤為明が著した行状、および僧義剛が記した逸事状に載っている。以上は契沖のあらましにすぎない。私はこれを聞いて嘆じて言った。『これは世の常の僧の著作とは異なる。どうして僧であるという理由で軽んじてよいだろうか』。そこで行状を取って読んだ。契沖の姓は下川氏、諱は空心。祖父の諱は元宜で、肥後守加藤清正に仕えた。父の諱は元全で、尼崎城主青山幸利に仕えた。間氏を妻として契沖が生まれた。五歳で藤原定家の選んだ和歌百首(百人一首)をよく暗誦した。七歳のとき病にかかってほとんど死にかけた。そこで父母に懇願して僧となった。時に十三歳であった。性質は淡泊で静けさを愛し、大寺の主となることを望まなかった。晩年に妙法寺の住持となったのは、母の住まいに近かったからであろう。母が天寿を全うすると、退いて円珠庵に住んだ。没年は六十二、僧としての年数は五十であったという。寛保三年癸亥十月、大坂の五井純禎撰」。この円珠庵というのは、大坂の高津のうちの餌指町という所にあって、この法師の墓はその庵の境内の竹林のかたわらにあり、その前にこの碑が立っているという。私は先ごろ大坂に行って、この高津のあたりに出かけた折、なんとか立ち寄ってこの墓も拝みたいと思ったが、日暮れ方になり、宿も遠かったので、道を急がされて、果たせなかった。この碑の文は、人が写して持っていたのを、さらに写したのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 契沖ほうしの墓のいしぶみ僧契沖没す、実に元禄十四年なり、没して即ち円珠庵に塔す、庵は大坂の東郊に在り、今を距つること四十三年、塋域荒蕪し、款字漫剝す、庵主源光之を憂い、将に修めんとす、乃ち諸を江友俊に謀る、素より和歌の学を為すことを嗜む、議便ち能く合い、遂に別に碑を造りて、その顛末を記し、以て之を冢上に列ねんと欲し、乃ち余をして之に文せしむ、余沖を識らず、且つ儒釈は塗を殊にするを以て辞す、俊曰く、沖は則ち緇流なりと雖も、和歌を善くし、及び万葉集を治めて、訓詁に功有る者なり、水戸義公の詞臣に命じて、万葉集の纂註を為すや、介して沖に請う、固辞して就かず、ここに於て代匠記を撰びて以て之を献じ、総釈之に副う、則ち公その善く古言を解き、善く古歌を釈するを嘉して、仍りて白金千両、絹三十匹を餽り、以て之に謝を展ぶ、沖即ち貧乏に散贍し、塔廟を修め、一銭尺帛も以て身に随えず、公また古今余材抄を閲して、柿本大夫の明石の和歌の解に至り、大いにその卓見に服し、乃ちまた書を与えて、強いて之を起たしむ、辞して曰く、林壑の性、拝起に堪えずと、終に就かず、著す所の漫吟集二十巻、下河辺長流子之に序す、厚顔抄、改観抄、勝地吐懐篇、各三巻、勢語臆断四巻、源注拾遺、名所補翼、各八巻、類字名所集七巻、和字正濫五巻、河社二巻、代匠記二十巻、総釈二巻、古今余材抄十巻、沖の人と為りや、寛厚長者、謙恭にして人を愛し、強識博覧、旁ら経史に通ず、嘗て人の為に万葉集を説くに、引証確実、雄弁注ぐがごとし。
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『玉勝間』四の巻 契沖ほうしのすめる庵契沖ほうしの住めりし、円珠庵と云う庵は、大坂の高津のあたり、えさし町と云う所にて、今も小寺にてあり。かのほうしこの庵にてみまかりて、墓もそこにあり。寛保の頃、五井純禎といえる儒者の書きたる碑文もたてり。そもそもこの庵は、もと和泉の国和泉の郡池田の郷万町村の、伏屋の某の家地の内、幣垣園と云うに在りて、そこに住みたりしを、難波には後に移して住めるなりとぞ。さればかの伏屋氏の家に、かのほうしの、そのかみ詠みて、みづから書きたりし歌など、多く持ち伝えて、今も残れるなり。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうさて京に在りしほどに、百人一首の改観抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云いし人の説を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、この人のあらわしたる物、余材抄、勢語臆断などを初め、その外もつぎつぎに、もとめ出でて見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き悪しきけじめをも、ようようにわきまえさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思えるむねは、大かた心にかなわず、その歌のさまも、おかしからず覚えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、ただ世の人なみに、ここかしこの会などにも出でまじらいつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなわざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有りける。そはさるべき理りあり、別に云いてん。さて後、国にかえりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出でたりとて冠辞考と云う物を見せたるにぞ、縣居の大人の御名をも、始めて知りける。
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『玉勝間』九の巻 契沖が歌を解けるやう歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。
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『玉勝間』五の巻 業平ノ朝臣のいまはの言葉古今集に、やまいして、弱くなりにける時詠める、なりひらの朝臣、「ついにゆく道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりしを。契沖云わく、これ人のまことの心にて、教えにも善き歌なり。後々の人は、死なんとするきわに到りて、ことごとしき歌を詠み、或いは道をさとれるよしなど詠める、まことしからずして、いと憎し。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじえめ、いまはと有らん時にだに、心の誠にかえれかし。この朝臣は、一生のまこと、この歌に現れ、後の人は、一生の偽りをあらわして死ぬるなりと云えるは、法師のことばにも似ず、いといとたふとし。やまとだましいなる人は、法師ながら、斯くこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさに斯うは云わんや。契沖法師は、世の人にまことを教え、神道者、歌学者は、偽りをぞ教うなる。
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、ただ近き世の歌ぶみをのみ学びて、万葉をまなぶ事無く、また神学者と云う物も、ただ漢ざまの理をのみさだして、古のまことのこころを得むことを思わねば、万葉をまなぶ事無くて、すべて万葉は、歌まなびにも、道の学びにも、必ずまずまなばでかなわぬ書なる事を、知れる人無かりき。されば、契沖ほうし、むねとこの集を明らめて、古の意をもかつがつうかがいそめて、はしばし云いおきつれども、歌人も神学者も、このしるべによるべき事を知れる人無かりしかば、おのが若くて、京に在りし頃などまでは、代匠記と云う物の有る事をだに知れる人も、おさおさ無かりければ、その書世にまれにして、いといと得がたく、かの人の書は、百人一首の改観抄だに、得がたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人に借りて見て、買わばやと思いて、本屋をたずねたりしに、無かりき。板本なるにいかなれば無きぞと問いしかば、ようずる人無き故に、すり出ださずとぞ云えりける。さてとかくして、からくしてぞ得たりける。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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