玉勝間 / 四の巻 花園
花園と云ひし所は、今の妙心寺その跡なり。續世繼に、花園、左大臣有仁公の御事を云へる所に、仁和寺にはなぞのと云ふところに、山里つくり出して、通ひ給ふとあり。昔は、かのあたりまで、仁和寺の內なりしにこそ、花園ノ帝この地に離宮を建てさせ給へり。斯くて後に寺にはなされしなり。
新字:花園と云ひし所は、今の妙心寺その跡なり。続世継に、花園、左大臣有仁公の御事を云へる所に、仁和寺にはなぞのと云ふところに、山里つくり出して、通ひ給ふとあり。昔は、かのあたりまで、仁和寺の内なりしにこそ、花園ノ帝この地に離宮を建てさせ給へり。斯くて後に寺にはなされしなり。
書き下し
花園と云いし所は、今の妙心寺その跡なり。続世継に、花園の左大臣有仁公の御事を云える所に、仁和寺にはなぞのと云うところに、山里つくり出して、通い給うとあり。昔は、かのあたりまで、仁和寺の内なりしにこそ、花園の帝この地に離宮を建てさせ給えり。かくて後に寺にはなされしなり。
現代語訳
花園と言った所は、今の妙心寺がその跡である。続世継(今鏡)に、花園左大臣有仁公(源有仁)のことを述べた所に、「仁和寺の花園という所に山里を造り出して、お通いになった」とある。昔は、あのあたりまで仁和寺の内であったのだろう。花園天皇がこの地に離宮をお建てになった。そうして後に寺にされたのである。
解説
京都の地名「花園」の由来と移り変わりを記した一段である。宣長は、花園と呼ばれた所は今の妙心寺の地だと言い、今鏡に、花園左大臣と呼ばれた源有仁が仁和寺の花園という所に山里風の別荘を造って通った、とあるのを引く。そこから、昔は妙心寺のあたりまで仁和寺の内だったのだろうと推す。そしてのちに花園天皇がこの地に離宮を建て、それが寺に改められた、と経緯をまとめる。花園天皇が法皇となってから離宮を禅寺としたのが妙心寺の始まりで、花園という地名は今も京都に残っている。宣長は二十代の数年間、京都で医学と儒学を学んだ。その土地の地名一つにも、平安の貴族の別荘から中世の禅寺まで、層をなす歴史が重なっているのである。
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