玉勝間 / 七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事
然れども國中諸士の心一致せず、同二年、國侍八十四人、連判の誓書を以て、阿蘇ノ大宮司惟乘の長子、惟長を申シうけ、菊地の養君とす。(惟長は二位惟豐の兄なり、)名を武經と改む。是より政隆と武經と鉾楯す。豐後の大友氏、阿蘇家に心を通じて武經を助く、同六年、政隆自殺す。これより國中みな武經に從ふ。然るに後に武經、阿蘇大友にくみせず、暴逆のふるまひ有て、沒落す。菊地武包を奉じて、廿四代の屋形と稱す。武包は、菊地の庶流託摩武安が子なり。屋形の名のみにて、孤弱なり、後には高麗へ赴けりと聞ゆ。同十七年、大友義長、菊地家の重臣と相議して、其子重治を以て、菊地家をつがしめ、廿五代の屋形と稱す。後に義宗と改め、又義武と改む、右兵衞佐と號す。從四位に叙せり。後に大友家に叛き、惡行有て、人望を失ひ、他國へ流落して、つひに菊地家絕滅せり。
新字:然れども国中諸士の心一致せず、同二年、国侍八十四人、連判の誓書を以て、阿蘇ノ大宮司惟乗の長子、惟長を申シうけ、菊地の養君とす。(惟長は二位惟豊の兄なり、)名を武経と改む。是より政隆と武経と鉾楯す。豊後の大友氏、阿蘇家に心を通じて武経を助く、同六年、政隆自殺す。これより国中みな武経に従ふ。然るに後に武経、阿蘇大友にくみせず、暴逆のふるまひ有て、没落す。菊地武包を奉じて、廿四代の屋形と称す。武包は、菊地の庶流託摩武安が子なり。屋形の名のみにて、孤弱なり、後には高麗へ赴けりと聞ゆ。同十七年、大友義長、菊地家の重臣と相議して、其子重治を以て、菊地家をつがしめ、廿五代の屋形と称す。後に義宗と改め、又義武と改む、右兵衛佐と号す。従四位に叙せり。後に大友家に叛き、悪行有て、人望を失ひ、他国へ流落して、つひに菊地家絶滅せり。
書き下し
然れども国中諸士の心一致せず、同二年、国侍八十四人、連判の誓書を以て、阿蘇の大宮司惟乗の長子、惟長を申しうけ、菊地の養君とす。(惟長は二位惟豊の兄なり、)名を武経と改む。これより政隆と武経と鉾楯す。豊後の大友氏、阿蘇家に心を通じて武経を助く、同六年、政隆自殺す。これより国中みな武経に従う。然るに後に武経、阿蘇・大友にくみせず、暴逆のふるまい有りて、没落す。菊地武包を奉じて、廿四代の屋形と称す。武包は、菊地の庶流託摩武安が子なり。屋形の名のみにて、孤弱なり、後には高麗へ赴けりと聞こゆ。同十七年、大友義長、菊地家の重臣と相議して、その子重治を以て、菊地家をつがしめ、廿五代の屋形と称す。後に義宗と改め、また義武と改む、右兵衛佐と号す。従四位に叙せり。後に大友家に叛き、悪行有りて、人望を失い、他国へ流落して、ついに菊地家絶滅せり。
現代語訳
しかし国中の武士たちの心が一つにまとまらず、永正二年、国侍八十四人が連判の誓書をもって、阿蘇大宮司惟乗の長男惟長をもらい受け、菊池の養君とした(惟長は二位惟豊の兄である)。名を武経と改めた。これ以後、政隆と武経が争った。豊後の大友氏は阿蘇家と心を通じて武経を助けた。永正六年、政隆は自害した。これ以後、国中はみな武経に従った。ところが後に武経は阿蘇・大友に味方せず、乱暴で道に外れたふるまいがあって没落した。そこで菊池武包を立てて二十四代の屋形と称した。武包は菊池の分家託摩武安の子である。屋形とは名ばかりで、孤立して弱く、後には高麗へ行ったと伝え聞く。永正十七年、大友義長が菊池家の重臣と相談して、その子重治に菊池家を継がせ、二十五代の屋形と称した。後に義宗と改め、また義武と改め、右兵衛佐と名のった。従四位に叙せられた。後に大友家に背き、悪い行いがあって人望を失い、他国へ流れ落ちて、ついに菊池家は絶えた。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事肥後国古今城主考と云う物に云わく、益城の郡岩尾の古城は、矢部轟村の辺に有り、阿蘇の大宮司、岩尾在城と、古記にあり。いずれの大宮司と云うことは分明ならず、大宮司始めは阿蘇、その後小国・南郷・矢部に居住す。文亀の末永正の初めより、菊地家衰弱して、国中次第に敗乱に及べり。この節大宮司は、四箇の神領の外、益城一部、その外所々手に入ると見えて、幕下の士、所々の城主たる者多し。天正十五年六月、秀吉公、矢部の内にて、三百町寄附、その余は没収せらる。惟乗神主より、二位惟豊・惟将・惟種の代に至りて、阿蘇家最も盛んなり。惟種の次、惟善・友貞・友隆と次第す。菊地郡隈府の古城は、後三条院延久四年、(一に云う二年)大夫将監則隆、当国に下向し、菊地の領主となる、これを菊地の始祖とす。則高は、中の関白藤の道隆公四代の後胤なり。則隆の子経隆を、菊地二代と称す。後に若宮の霊社と号す。三代経頼、四代経宗、鳥羽院の武者所と称す。五代経直、六代隆直、肥後守と号す。安徳天皇の勅命に随いて、忠あり、隆直の事、東鑑に見えたり。七代隆定後鳥羽院に仕え奉り、武者所になれり。八代能隆は、豊後の大友の始祖能直の婿なり。
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『玉勝間』七の巻 肥後の阿蘇ノ大宮司家菊地家の隈府孔子堂の事九代隆泰、十代武房、(一説康成)文永・弘安両度の合戦に、対馬・筑前に於て、蒙古人を討ち平げ、日本の武名を、異国に施せり。十一代時隆、十二代武時、法名寂阿、後醍醐天皇の御為に、博多に於て、討死。十三代武重、肥後守と号す。忠義の勤め、勇烈の志、都鄙にかくれ無し。十四代武士、(一説武俊、或いは武敏、或いは云う武重の甥、或いは云う養子、或いは云う武重の弟、)十五代武光肥後守と号す、武重以来肥後の国主となる。征西将軍の宮を補翼し、廿年の勤労を以て、鎮西一統の武功をなす。九州の士庶、その号令に応ず。十六代武政、隈府に城をたつ。武光の代までは、菊の城と云うところに居す。菊の城は、深川村の北に在り。十七代武朝、肥後守また右京大夫と号す、法名常朝。十八代兼朝、肥後守また右京大夫という。十九代持朝、従四位肥後守と号す、月松屋形と称す。廿代為邦、廿一代重朝の代に、隈府に孔子堂をたて、春秋の祭礼あり。廿二代武運、従四位肥後守と号す、後に能運と改む。永正元年、能運死して、菊地の嫡流絶えたり。依りて為邦の甥の、肥前守重安の子、政隆を以て、能運の跡をつがしめ、菊地廿三代の屋形という。
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『玉勝間』七の巻 みだれ世のあさましかりし事同書に、文和四年二月十一日、天晴る、今日、吉田神主兼豊、状を女中に進むるの次いで、当社追捕の事之を申す、およそ為す方無きか、この程は、道もあまりにあまりにろうぜきに候。また斎屋をも見捨てがたくて、参り候わず、去る三日、山のぐんぜい社頭へ乱入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神宝を追捕し、また御かまいしいしまで、追捕しつる程に、ともかくも申す計り候わで、火にも水にも入りたきまでに、なげき存じ候、よし田の御参りも、今ちと御延わたらせおわしまして、事のよう、いささかも御らんじしずめられ候御事にて候え、とても今は、物参の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覚えさせおわしまして候、こまかにおおせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ。これ兼豊の状なり。山のぐんぜいとは、この程比叡の山にあつまりいたる軍勢を云えり。尊き御社を、さばかりそこない奉りけむ、その世のもののふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなども世のつねなり。また同じ書に同年七月廿六日、後に聞く、今夜窃盗頗る人勢を卒い、禁中の女房勾当内侍、並びに禁中管領宰相典侍已下の局に乱入し、悉く追捕す。台盤所の遣戸等、踏み破ると雖も、御所に入らず退散すと云々。末代の極み、悲しいかな。
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『玉勝間』七の巻 綾小路中将敦有朝臣の事同書に、観応三年十月十九日、夜に入りて、綾小路中将敦有朝臣来たる、計略術尽くるの間、近日濃州の所領に下向すと云々、諸人この式、不便の事かと見ゆ。はやくこの程よりして、天の下の乱れにて、かかる人々も、かく京の住まいなりがたかりしが有りしなり。これは応仁の乱れより、百十余年あなたの事なり。足利氏の世は、大かた初めのほどよりぞ、かく有りし。
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『玉勝間』十一の巻 肥後国阿蘇ノ神社肥後国の阿蘇山は、麓より三里のぼりて、山の上に大なる池有りて、つねに湯わきあがりて玉を散らし、いみじく火のもゆるを、その火のもゆること熾なる時には、石をとばして、池のほとりに近づき難し。神社は、山の下なる宮地村と云うにたたせ給えり。そのさま左にしるせる図の如し。一の宮は健磐龍命の神社。二の宮は阿蘇比咩の神社。国造神社は速瓲玉命、金凝神社は綏靖天皇におわしますなり。大宮司は、姓は宇治朝臣と云う。その宅は、件の宮地村をすこし離れて、大宮司屋敷と云う所に有りと、肥後の国人の語れるなり。今思うに、瓲をかめと唱うるは誤りにて、かの御名ハヤミカタマなるべし。また金凝の神社を、綏靖天皇と申すも、神八井耳の命を誤れるなるべし。さて大宮司の姓、今宇治の朝臣と云うは、いかなる由にて、いつの代よりの事ならむ。古事記に阿蘇の君とあるこそ、この氏とは聞こえたれ。
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『甲陽軍鑑』品第六然るに尊氏公より十三代の公方、万松院義晴公、天文十九庚戌年御逝去の時、御遺言に阿波の三善修理太夫を頼み給ふ間、光源院義輝公いまだ十五歳にて御座をもり立て奉り、十四代の御世をつがせ奉るやうにと、修理太夫殿を御頼あり、扨て又修理太夫殿の嫡子左京太夫は、光源院の御妹むこと御定め有之、然は松永は左京太夫殿をもり立て、左京太夫殿は公方を奉仰にをひては、君臣共に長久ならん、剰光源院を討まいらする其罪のがれがたきにや、
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