玉勝間 / 七の巻 淡海公を天智天皇の御子なりと云へる説
帝王編年記云、齊明天皇五年己未正月、天皇自紀伊國溫泉、還宮、是歳皇太子(天智天皇)妊寵妃御息所、車持公女婦人、賜於内臣鎌子、已六箇月也、給件御息所之日、令旨日、生子有男者、爲臣子、有女者、爲我子、爰內臣鎌子、守四箇月嚴重、令遂生產、其子已男也、仍如令旨、爲內臣子、其子贈太政大臣、正一位勳一等藤原朝臣不比等と云へり。大たか名高き人には、よく斯やうの說を云ふものなり。此說などは、ことに信かたし、古、を知らざる後の世人の云ひ出たる、例の說なるべし。
新字:帝王編年記云、斉明天皇五年己未正月、天皇自紀伊国温泉、還宮、是歳皇太子(天智天皇)妊寵妃御息所、車持公女婦人、賜於内臣鎌子、已六箇月也、給件御息所之日、令旨日、生子有男者、為臣子、有女者、為我子、爰内臣鎌子、守四箇月厳重、令遂生産、其子已男也、仍如令旨、為内臣子、其子贈太政大臣、正一位勲一等藤原朝臣不比等と云へり。大たか名高き人には、よく斯やうの説を云ふものなり。此説などは、ことに信かたし、古、を知らざる後の世人の云ひ出たる、例の説なるべし。
書き下し
帝王編年記に云う、斉明天皇五年己未正月、天皇紀伊国の温泉より、宮に還る、この歳皇太子(天智天皇)の寵妃御息所、車持公の女婦人を妊ませ、内臣鎌子に賜う、已に六箇月なり、件の御息所を給うの日、令旨に曰く、生まるる子男有らば、臣が子と為し、女有らば、我が子と為せと、ここに内臣鎌子、四箇月厳重に守りて、生産を遂げしむ、その子已に男なり、仍りて令旨のごとく、内臣の子と為す、その子贈太政大臣、正一位勲一等藤原朝臣不比等と云えり。大たか名高き人には、よくかようの説を云うものなり。この説などは、ことに信じがたし、古を知らざる後の世人の云い出でたる、例の説なるべし。
現代語訳
帝王編年記に次のようにある。「斉明天皇五年己未の正月、天皇は紀伊国の温泉から宮にお帰りになった。この年、皇太子(天智天皇)が寵愛する妃の御息所で、車持公の娘である婦人を身ごもらせたまま、内臣の中臣鎌子に賜った。すでに六か月であった。その御息所を賜った日のお言葉に、『生まれる子が男ならばそなたの子とし、女ならば私の子とせよ』とあった。そこで内臣鎌子は四か月の間厳重に守って出産させた。その子は男であった。そこでお言葉のとおり内臣の子とした。その子が贈太政大臣・正一位勲一等の藤原朝臣不比等である」と言っている。おおかた名高い人には、よくこのような説を言うものである。この説などはとりわけ信じがたい。古を知らない後の世の人が言い出した、いつものたぐいの説であろう。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻三 第三十九代 天智天皇御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おましましき。
-
『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜える御歌、御答えに奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。この女王この時は、大和の国に居住まれたりと聞こえたれば、故郷の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘い給えるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうえの事にても有るべし。天武紀に、十二年に、天皇の、この女王の病をとい給いし事、またその薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田の王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌、これその証なり。その次に鏡女王の歌有り。これまたこの女王も、天智天皇に娶られたる証にて、妹の王と共に思い奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におわしましし程より、額田の王に御心をかけられたりし事、同じく一の巻の十四のひらなる御歌にて知らる。その御歌に、人づまゆえにと詠み給えるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の説はたがえり。さてこの御歌のこの御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給いて後に、天武天皇にはめされて、十市の皇女をうみ奉られしなり。
-
『玉勝間』十三の巻 平城ノ天皇の御名平城天皇の御諱、はじめには小殿と申せしを、安殿と改め給えり。そのかみすべて皇子たち諸王などの御名、いずれも御乳母の姓をとれる例にて、この小殿と申せしも、続紀卅九の巻に、御乳母安倍小殿の朝臣堺と云うが見えたる、この姓なり。安殿も、この安の字と殿の字をとり給えるなり。さてこは阿伝と字音に読み奉るなり。紀の国の在田の郡は、もと安諦の郡にて、書紀続紀に、阿提郡とも書かれたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田の郡とは改められき。
-
『神皇正統記』巻三 第四十二代 文武天皇南家・式家も儒胤にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。又不比等の大臣は後に淡海公と申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申也。後に玄昉と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、此寺にひろめられしより、氏神春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おましましき。
-
『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井倭姫の命の宮の事は、今里人の云い伝えは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫の命の宮と、誤り伝えたりとせば、これ又かえりて、かの行宮の証とすべし。八つには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考うるに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給いて、同月廿日乙酉に、還らせ給えり。然るを、此行幸は五月なりと云われたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、阿胡の行宮に御しし時贄を進りし者に云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引けるを、ふと見て、五月とは思い誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡の行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九つには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おおやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立ちよられたるなり。さればこれも鈴鹿の郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思う。
-
『神皇正統記』巻三 第四十六代 孝謙天皇〜第四十七代 淡路廃帝第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇女立給き。己丑年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮になむましましける。 ○第四十七代、淡路廃帝は一品舎人親王の子、天武の御孫也。御母上総介当麻の老が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事と云職をさづけられ、朝務を輔給けり。日本紀もこの親王勅をうけ玉はつてえらび給。後に追号ありて尽敬天皇と申。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おましましき。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る