玉勝間 / 七の巻 頼長公の印の事
同記に、仰文章博士茂明朝臣、勘印字樣、(是賴字古文也、用名上字例也、)云云、印、(以銅鑄之)方一寸九分、高一寸八分、壺、(以銅鑄之、)其形如小桶、身、(口徑三寸七分、指牙下言之、)深一寸七分、葢、(口徑同身、深三分)。
新字:同記に、仰文章博士茂明朝臣、勘印字様、(是頼字古文也、用名上字例也、)云云、印、(以銅鋳之)方一寸九分、高一寸八分、壺、(以銅鋳之、)其形如小桶、身、(口径三寸七分、指牙下言之、)深一寸七分、葢、(口径同身、深三分)。
書き下し
同記に、文章博士茂明朝臣に仰せて、印の字様を勘えしむ、(これ頼の字の古文なり、名の上の字を用うる例なり、)云々、印、(銅を以て之を鋳る)方一寸九分、高さ一寸八分、壺、(銅を以て之を鋳る、)その形小桶のごとし、身、(口径三寸七分、牙の下を指して之を言う、)深さ一寸七分、蓋、(口径身に同じ、深さ三分)。
現代語訳
同じ記(台記)に、「文章博士の茂明朝臣に命じて、印の字の形を考えさせた(これは『頼』の字の古文の字体である。名の上の字を用いる例である)、云々。印は(銅で鋳造する)一辺一寸九分の四角、高さ一寸八分。壺(印を納める容器)は(銅で鋳造する)その形は小さな桶のようである。身は(口の径三寸七分。牙の下を指して言う)深さ一寸七分。蓋は(口の径は身に同じ。深さ三分)」とある。
解説
藤原頼長が自分の印を作らせた記録を台記から書き抜いた段である。文章博士の藤原茂明に字の形を考えさせ、名の上の字「頼」を古文、つまり篆書以前の古い字体で刻んだ。銅で鋳た一寸九分角の印と、それを納める小桶形の銅の容器の寸法までが細かく記されている。平安貴族の私印の実物はほとんど残っておらず、形や大きさ、字の選び方が具体的にわかる記録は貴重である。名の一字を古い字体で刻むという選び方には、学識を誇った頼長らしい好みもうかがえる。宣長は台記の中から、儀式や政務だけでなく、書庫や印といった学者の身の回りの道具の記事を選んで写している。自らも書を集め、印を用いた学者として、先人の道具へのこだわりに共感するところがあったのであろう。
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 文倉同記に、同年四月二日(丁丑)、正月より始めて造る所の文倉造り了りて、今日文書を置く、(吉時に依りて午の刻を用う、憲栄日時を勘申す、)余冠・直衣を着て、春秋緯の櫃を取りて、先ず陽の棚に入れ置く、(東の棚五重、之を陽と謂う、)蔵人式部丞藤成佐、束帯を着て、易・詩等の緯及び河渠書の櫃を取りて、また陰の棚に入れ置く、(西の棚六重、之を陰と謂う、)泰親申して云う、文倉を作りて、始めに河洛の書を入るるの由、先達の伝うる所なり、余従いて之を用う、文倉の制、高さ一丈一尺、(北の外の礎高さ一尺)東西二丈三間、南北一丈二尺一間、南北に戸有り、四方皆之を棒つに板を以てし、その上に石灰を塗る、その戸は端柄を塗る、剥落せしめざらんが為なり、葺くに瓦を以てす、倉を去ること六尺、芝垣を築く、広さ七尺、高さ一丈三尺、坤の角に、出道の道有り、乾の角に地を決して水を通ぜしむ、芝垣の外に溝を掘る、深さ三尺、広さ二尺、その外に竹を栽え廻らす、その外に尋常の築垣有り、(西北は家の外郭、東南は別に倉の郭と為す、)巽の角(南面)に戸有り、云々、その書に四部有り、経、史書、雑説、本朝。
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