玉勝間 / 七の巻 物書くに心すべき事
又かくれが、すみかなどのカに、家、字を書くは、ひがことなり。これらのカは、處の意にて、家と云ふ事には有らず。されど處と書べきにはた有らざれば、唯だ假字に書くぞ善き。又隱が、住かなど、上を眞字、下を假字に書たるは、こちなく見ゆ。此たぐひ皆同じ。さびしに淋ノ字、いかにぞやおぼゆ。ながめに詠ノ字もいかが、詠は、聲を長むることにこそ有れ、物を見るながめには、よし無し。さて又常に目なれぬ文字をつかふ事、すべて惡ろし。すべて上ノ件のたぐひの事ども、猶いと多かるを、今は唯だ思ひ出るままに、一ッ二ッ云へるのみなり。なずらへて心得べし。そもそも古へ人は、必〓さしもこまかには物せず、物書きたるも、おほらかにて、文字なども、心にまかせて書たれば、今も唯だいかに書ても有りぬべし、さまでこちたく事を分けむは、くだくだしき後の世心にこそ有らめ、と思ふ人、有べし。すべて古、をこのみて、萬づに心高からむとかまふる人は、斯かる事云ふをば、心ひきく拙きわざと、もどくべかめれど、其れ然しも有らじ。
新字:又かくれが、すみかなどのカに、家、字を書くは、ひがことなり。これらのカは、処の意にて、家と云ふ事には有らず。されど処と書べきにはた有らざれば、唯だ仮字に書くぞ善き。又隠が、住かなど、上を真字、下を仮字に書たるは、こちなく見ゆ。此たぐひ皆同じ。さびしに淋ノ字、いかにぞやおぼゆ。ながめに詠ノ字もいかが、詠は、声を長むることにこそ有れ、物を見るながめには、よし無し。さて又常に目なれぬ文字をつかふ事、すべて悪ろし。すべて上ノ件のたぐひの事ども、猶いと多かるを、今は唯だ思ひ出るままに、一ッ二ッ云へるのみなり。なずらへて心得べし。そもそも古へ人は、必〓さしもこまかには物せず、物書きたるも、おほらかにて、文字なども、心にまかせて書たれば、今も唯だいかに書ても有りぬべし、さまでこちたく事を分けむは、くだくだしき後の世心にこそ有らめ、と思ふ人、有べし。すべて古、をこのみて、万づに心高からむとかまふる人は、斯かる事云ふをば、心ひきく拙きわざと、もどくべかめれど、其れ然しも有らじ。
書き下し
またかくれが、すみかなどのカに、家の字を書くは、ひがことなり。これらのカは、処の意にて、家と云う事には有らず。されど処と書くべきにはた有らざれば、ただ仮字に書くぞ善き。また隠が、住かなど、上を真字、下を仮字に書きたるは、こちなく見ゆ。このたぐい皆同じ。さびしに淋の字、いかにぞやおぼゆ。ながめに詠の字もいかが、詠は、声を長むることにこそ有れ、物を見るながめには、よし無し。さてまた常に目なれぬ文字をつかう事、すべて悪ろし。すべて上の件のたぐいの事ども、なおいと多かるを、今はただ思い出ずるままに、一つ二つ云えるのみなり。なずらえて心得べし。そもそも古人は、必ずさしもこまかには物せず、物書きたるも、おおらかにて、文字なども、心にまかせて書きたれば、今もただいかに書きても有りぬべし、さまでこちたく事を分けむは、くだくだしき後の世心にこそ有らめ、と思う人、有るべし。すべて古をこのみて、万ずに心高からむとかまうる人は、かかる事云うをば、心ひきく拙きわざと、もどくべかめれど、それ然しも有らじ。
現代語訳
また「かくれが」「すみか」などの「か」に「家」の字を書くのは誤りである。これらの「か」は「処(ところ)」の意味であって、「家」ということではない。しかし「処」と書くべきものでもないので、ただ仮名で書くのがよい。また「隠が」「住か」など、上を漢字、下を仮名で書いたものは、ぶざまに見える。この類はみな同じである。「さびし」に「淋」の字を当てるのは、どうかと思われる。「ながめ」に「詠」の字を当てるのもどうか。「詠」は声を長く引くことであって、物を見る「ながめ」には関係がない。さてまた、ふだん見慣れない文字を使うことは、総じてよくない。総じて上に挙げたような類のことは、まだたいそう多いが、今はただ思い出すままに一つ二つ言っただけである。これになぞらえて心得るべきである。そもそも昔の人は、必ずしもそれほど細かくは気を配らず、書いたものもおおらかで、文字なども思いのままに書いていたのだから、今もどう書いてもかまわないだろう、そこまで大げさに区別するのは、くどくどしい後の世の心であろう、と思う人もいるだろう。総じて古を好み、何事にも志を高く持とうと構える人は、このようなことを言うのを、志が低く拙いことだと非難するだろうが、それはそうでもあるまい。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事歌など、またさらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云うたぐいの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書く事なれども、然か書きては、あるはとも、あらばとも読まれ、その外もそのじょうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、読み誤りて、写すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、仮字にもかきなす事有り。さればかくたがいに読みまがうべき言は、みな仮字に書くべきわざなり。また霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などように云うを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは悪ろし。用言に云う時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などように、はたらく文字をそえて書くべし。すべてかく体と用とにつかう詞は、用の時は、はたらく文字を添えて書かざれば、まぎるること有るなり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐいなり。またもみじばと云うに、ただ紅葉とのみ書きては、もみじとのみ云うと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有るまじき書きざまなり、もみじ葉と書くべきなり。葉をば真字に書くべし、これをもともに仮字に書きては、テニヲハのハにまぎるればなり。
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『玉勝間』六の巻 書うつし物書く事ふみを写すに、同じくだりのうち、或るはならべるくだりなどに、同じ詞の有る時は、見まがえて、そのあいだなる詞どもを、写し漏らす事、常によく有るわざなり。また一ひらと思いて、二ひら重ねてかえしては、その間の一ひらを、みながら落とすことも有り。これら常に心すべきわざなり。またよく似て、見まがえやすき文字などは、殊にまがうまじく、たしかに書くべきなり。これは写しがきのみにもあらず、おおかた物書くに、心得べき事ぞ。すべて物を書くは、事のこころをしめさむとてなれば、おうなおうな文字さだかにこそ書かまほしけれ。さるをひたすら、筆のいきおいを見せむとのみしたるは、いかなる事とも、読み解きがたきが、世に多かる、あじきなきわざなり。常に書きかわす、消息文なども、文字読みがたくては、云いやるすじ、ゆきとおらず、読む人はた苦しみて、かしらかたぶけつつ、かえさい読めども、ついに読み得ずなどしては、ここ読みがたしと、かえし問わんも、さすがに無体しきようなれば、ただおしはかりに心得ては、事たがいもするぞかし。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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『玉勝間』十四の巻 仮字皇国の言を、古書どもに、漢文ざまに書けるは、仮字と云うもの無くして、せむかたなく止む事を得ざる故なり。今はかなと云う物ありて、自由に書かるるに、それを捨てて、不自由なる漢文を以て、書かむとするはいかなるひが心得ぞや。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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